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2018-07

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室堂に向かって - 2018.04.23 Mon

 4月15日、立山黒部アルペンルートの雪掻きが終わって全線開通。これで室堂までは、何時でも気軽に行くことができるようになった。
 室堂は、これまで何回も訪れていて、特にどうこう言う場所ではないが、これまでは登山を目的に訪れたので、ここは通過点に過ぎないこともあってユックリと遊んだことはない。でも、山へは行けなくなった現在では、公共交通機関で行けるここは魅力ある場所となっている。
 ここには、まず、『雪の大谷』と名付けられた観光地がある。観光地といっても、通年で楽しめるものではなく、ここへ通じる道路の開通直後の1ヶ月くらいだけの限定された観光地である。
 立山から室堂まではバスが通じているが、何分にも雪深い山岳地帯だけに積雪時期には当然のことながら何メートルもの雪に覆われるために道路は閉鎖される。
 ここの雪解けは、積雪量が多いので早くとも6月か、7月の声を聞かないことには、そうはならない。そこで春になると、人の手によって雪掻きをして道路を開通させることが、何時のことからかは分からないが始まったようである。
この雪掻きによって、道路の両脇には新たに雪の壁ができ、これが高い場所では20メートルにも達することがあって、これが観光資源の1つになっている。ちなみに、始発の美女平から室堂に至る23キロメートルの区間の雪が切り開かれるので、まるでこの道が川のように見え、一番、雪の深い室堂では水深(?)が20メートルにも達し、これを大きい谷に見立てて『雪の大谷』と呼ばれるようになったらしい。
 私たちが、この季節にここを訪れたのは、2001年5月3日から6日だったので、今から17年も前のことである。この頃は、前に述べたように登山が主目的だったので、この雪の大谷を目にしても格別の感動を覚えることもなく、1、2枚の写真を撮っただけで、いそいそと目的地である雷鳥平のキャンプ場へ向かっている。
 こんな具合であったので、もう一度、雪の大谷の感触を味わいたいと思い、今年の開通以来、そのチャンスを窺っていた。
天気予報は、5月19日から4日間ばかりは晴天が見込まれるとのことで、この期間に決行することにした。だが、18日はちょっとした用事が入っていたし、できれば混雑する土日は避けたいという思いがあって、この4日の内、必然的に20日(金曜日)に決定せざるを得ないという事情があった。
 このため、19日に自宅を出発することになった。
 カーナビに目的地を入れると、岐阜(市)の方へ案内を始めるので、白川郷を通って富山県に入るのだと思い、そのまま車を出発させた。これが、9時53分のことだった。
 国道22号で岐阜へ入って、金華山の下を通り抜けるトンネルを通り、国道156号に移り、これを北上する。
 道の駅美並でトイレ休憩に立ち寄ると、このとき11時30分過ぎだったので、ここで少し早目の昼食を摂り、12時過ぎに、出発する。
 郡上までは予定どおり走ることができたが、ここでカーナビは私が思い描いていた白川郷へは行かず、せせらぎ街道へ入るように指示してきた。せせらぎ街道から高山へとなると、この後、高山から白川郷へ行くとなると遠回りになるし、そもそも高山へ行くならば、何も岐阜から回らなくても、何時も走っているように国道41号を走ればよいのに……と、疑心暗鬼に陥れながらもカーナビに従う。
 この道は、秋に走る分には紅葉の美しいが、春の今では木々の葉っぱは総て落ちて、情緒に欠ける枯木の林の中を走る風情のなさで、何も好き好んで走るような道ではない。
 こんなことを思いながら走っていると、助手席の妻から、「芝桜が咲いているらしいわよ」と私が見落した道路脇の看板の意味を教えてくれた。
 こんな面白味のない道を走っているだけでは物足らないので、立ち寄っていこうと発作的に思い、次の看板のところから国道を離れた。
 山道を5、6分くらい走っただろうか、もう少し短かったかもしれないが、やがて目の前に芝桜のピンクの絨毯が見えてきた。
 この畑の出外れに、7、8台の収容可能な駐車場があって、ちょうど、私が停める1台分が空いていたので、ここへ車を乗り入れる。
 この芝桜畑は、ここの農家の先代女性が1株の芝桜を取ってきて、移植。これが次第に増えて現在のものになったらしい。この女性、既に死亡しているらしいが、この子孫が女性の意志を引き継いで公開しているらしい。
 このような経緯の花畑であり、規模はそれほど大きい訳ではないが、山里の花園としては立派なものといっても過言ではない。
この芝桜の存在は、ここにくるまでまったく知らず、儲けものをした気分であった。
 なお、この旅を終え、21日に自宅に帰って、その日の新聞を見ると、この『國田家の芝桜』が1面で紹介してあった。こうしてみると、この芝桜も広く知られたものらしいことが分かった。
 こうして20分ばかり、この芝桜の見学を終えて、再び、車を走らせていると、今度はカタクリの群生地の看板が目に飛び込んできた。一瞬、ここへも立ち寄っていこうかと思ったが、このとき、14時は過ぎていたので、これは省略して先を急いだ。
 高山の手前で建設中の高速道路に1区間だけ、乗ったが、直ぐに降りて国道41号に出た。これで、この国道をまっすぐ走って富山に入ってから、立山へ向かうのだと理解できた。だが、途中、古川の辺りでカーナビは左折を指示してきた。この道を左折すると天生(あもう)峠から白川郷へ出る道だったので、このカーナビの意図は今になっても分からない。
この道を走っていて、以前、折立(薬師岳登山口)から双六岳方面を縦走したときに走っていることを思い出したが、このときは夜中の走行だったので辺りの様子はまったく記憶になく、初めての道を走っている感覚であった。
 富山に入って初めての道の駅細入でトイレ休憩をはさみ、16時28分に立山駅前の駐車場に到着した。ちなみに、走行距離は、212キロメートルであった。
 本日、走った道は田舎道が多かったこともあって、道脇にスーパーとかコンビニは前半に数えるほどしかなく、夕食、朝食の準備はしていなかった。立山駅ならコンビニくらいはあると思っていたが、これは外れであった。人手の多い割には何もない町で、売店は駅の中の土産物店だけであった。
 なお、この売店は価格の高いことには驚いた。なにしろ、あんパン1個が160円とか、170円ほどの定価が付いていた。
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丸山までは遠かった - 2018.03.18 Sun

 3月14日(水曜日)の9時少し前、予定どおりに自宅を出発して鈴鹿に向かって車を走らせた。
 このところ春そのものという天気が続き、気温も高くなっていて、桜の開花予想も例年を1週間から10日も早まるとテレビでは報じられていた。さしもの寒く厳しい今年の冬もようやく過ぎ去ったかのようである。
 これだけ暖かくなれば鈴鹿の花も咲き始めただろうと見当を付けて、この日の2日前から山行きを予定していたのだ。
 だが、先に登った弥勒山、大谷山では思っていた以上の結果であったが、これらの山々に比べると鈴鹿の山はどの山でも簡単に比較することはできない厳しさがあるということで、不安は付きまとうが、これを振り切っての出発であった。
 目指す山は藤原岳の南側の尾根、丸太尾根の上にある丸山である。
 ここへの登山口は、いなべ市新町にある。この丸山へは、数えきれないくらいに通っているので、1年ぶりだとはいっても、道順は頭の中に入っていて間違える心配は皆無だといってもよい。
 途中、順調に走ることができ、10時30分過ぎに登山口である新町の集落の墓地にやってきた。
 ここに着き、辺りを見回して驚いた。
 10数台は駐車ができる墓地の前の駐車場は満車。墓地の南側の空地も6、7台が、これ以外にも墓の中や、最奥の水道施設の前までも入口を塞ぐ形で車が停められていた。仕方がないので、出入口近くの路肩に駐車せざるを得なかった。
 ここ孫太尾根は、花を狙った登山者が春先に押し掛けるので、休日には大賑わいすることはある程度考えられるが、この日は平日である。まさか、これだけの人々が押し掛けているとは思いもしなかった。
 私たちのような暇を持て余した老人が、増えた結果であろうことは容易に推定できるが、それにしても多い。
 ここで身支度を整える。とはいっても、私も姫君も身支度といっても特別に着替えることはなく、家を出たときのままの姿であった。ちなみに、私のいでたちはというと、上が長袖のシャツにスポーツシャツ、下がパンツとジーンズ、靴は普段ばきのレザーシューズというもので、家にいるときと変わらない姿である。
 荷物は、2リットルのウーロン茶1本、カメラ2台と三脚のみである。大きいカメラ2台はかさばるので、ザックだけは何時もの45リットルを担いで行くことにした。ちなみに、姫君は街中でも外出時に持つリュックサック型のパックで、中には本日の2人分の昼食用の菓子パンが入っていた。
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 こうして準備が完了、10時40分、直ちに歩き始めた。
 墓地の奥にある新町集落の簡易水道の給配水施設の横を通り抜けて林の中に入ると直ぐに左折する明瞭な踏み跡が付いているので、これに沿って林の中へ入っていく。ここが登山口である。
 今は、このような分かり易い道ができあがっているが、私たちがこの孫太尾根を最初に歩いたときには、まず、この墓地に辿り着くまでが大仕事であった。
 新町の住民に尋ねても、孫太尾根という名前は浸透していないので分からない。墓地の所が登山口だと聞いていたので、このことを話すと、「私たちも墓参りに行くので付いてこい」と、自転車に乗って走りだす。小走りに付いていくと、墓だといっても別の墓だった。
 その後、ようやくこの墓地を探し当てるが、今度は道が分からない。踏跡など、まったく付いていないので、知っている人しか分からない。仕方がないので、林道の終点から右手の尾根へ樹の幹や根っこを掴んでようようのことで孫太尾根に登り上がる。そして、藤原岳を目指した。
 最初は、こんな具合で、その後の2、3度は同じように道なき道をよじ登った末にようやく登山道を見付け出した。
 だが今は、このようなハッキリとした道ができている。月日の経過というのは恐ろしいほどの変化を生むものである。こんなことを考えて林の中を歩いていると、何時の間にか孫太尾根の支尾根に乗ったようで、歩く道に勾配が付き始めた。
 間もなく、右手に炭焼釜跡が現れてきた。
 最初の頃、何度目かは不詳だが、林道がなくなっても暫らく、林道の延長線上を辿った末、上方向へ進路を採って孫太尾根へ向かったことがある。このとき、先のほうにこの釜跡があって、その先に道らしきものが見えていて、現在の登山道を発見したという経緯があった。このため、この釜跡は私たちにとっては忘れもしない記念の場所でもある。
 とはいえ、本日、改めて釜跡を眺めてみると、荒廃が進んでいて注意深く観察しないと釜跡には見えないようになっている。
 ここを過ぎると、道の勾配は急になってくる。先に歩いた弥勒山の登山道に比べる急であるのと、滑り易いことも加わって、歩き難いこと、この上ない。
 これを登りきると、辺りは少し平坦な広場状になっており、神武神社跡という極小の石の碑が建てられている。
 ここには、以前、神武神社というお宮さんが祀られていて、この下の新町の住民が氏子になっていて、参詣路も設けられていたらしい。ちなみに、この参詣路は現在の登山道とは少し異なっていたらしいが、これについての詳細は不詳である。
 この神社は、何時の頃かは不詳ながら、下へ移されたということだが、移転先については審らかでない。藤原岳の代表的な登山道の1つである表登山道(大貝戸登山道)の登山口に神武神社が祀られているが、こがここの神社と同じであるか否かは定かでない。
 何れにしても、私たちが、ここに初めてやってきたときには既にお宮はなかったことだけは確かである。
 ここまで登ってくると、妻の呼吸は荒くなっていて休憩を要求するので、ここでお茶休憩、この機を利用して妻はフリースのベスト1枚を脱ぎ、私のザックの中へ収まることになった。
 ここから暫くの間、また、急登となる。というより、ここから暫らくは定まった道というものが確立していないため、てんで(ん)バラバラの状態で登っている。このため、脚力のある者は直登、私たちのように足の弱い者にとってはあまり足に負担のかからないように遠回りして登ることになる。このように登るので踏み跡は一定せず、何時まで経っても踏み跡が道とならないのだ。こういう区間は、私たちにとっては辛い区間となっている。言い方を変えると、真っ直ぐに登り上がることができなくなった私たちには大いに堪える。
 しかし、この区間も短く、間もなく、踏み跡は左端に寄ってくると、また、道の体裁を取り戻すことになり、難所は通り越したことになった。
 道は稜線と交わった。この稜線が孫太尾根で、これが藤原岳まで続いている。ちなみに、この稜線の上には、神武、丸山、草木、多志田山、藤原岳(展望の丘)と続いている。
 このため、先ずは手始めに右手に続く登りをこなせば神武であるが、何もこのような労力を使わずとも神武から降った場所へ通じる抜け道が設けられているので、この道を辿る。
 ここからは尾根歩きになり、これまでのような急登はせずともよくなり、加えて道もよく踏み締められた歩き易いものとなるので、ヤレヤレと胸を撫で下ろすことになった。
 ここからは、なかなかそれとは気付かないが、青川沿いの道、尾根を歩くことになる。所々に左下が切れ落ちている所があり、このような場所では、このことが実感できる。このことを気にするようになったのは、雪の季節に進むルートが分からなくなった時に、このことを知っておくと大いに役立つためである。
 薄暗いくらいの樹林が明るくなって、登り勾配が強くなると、これを登りつめた所で尾根の乗り換えになる。登りでは1本の尾根だが、降りの場合は、今、歩いている尾根と、青川に急激に落ち込んでいる尾根が分かれる所である。
 この尾根を登り上がった所が、ヒロハアマナが固まって咲いている場所だが、果たして、今年はどんな具合であろうと、期待を込めて歩いていく。
 足下に注意を払って歩いていくと、まず、最初の花が見付かり、「あった」と声を上げる。別に、姫君に伝えるために上げたものではなく、自然に口を突いて出たもの、安心の裏返しでもあった。
 ここ数日、暖かい日が続き、本日も晴天に加えて無風という願ってもない天気が味方したのか、こうして1つが見付かると次々とこの花が見付かった。
 ここでザックを降ろして撮影会の開催となるのは何時ものパターンである。
 ひと通りの撮影が終わると、今度は2つが一緒に咲いているものがないかを探し始めた。だが、欲張ったことを望んでも、そうは問屋が卸さなかった。これを見付けるのを諦めて、再び、ザックを担いで歩き始める。
 ここから疎林を抜けると、小石のゴロゴロとした急な尾根があり、その次の岩の尾根を終えた所にセリバオウレンの咲く場所があるので、ここへ急いだ。
 小石の尾根を過ぎると、また杉の植林である。この杉の植林の出外れにセリバオウレンが咲いていた。
 セリバオウレンは、岩の尾根を過ぎた所だと記憶していたのが違っており、小石の尾根と岩の尾根の間にあったのだと、このとき初めて記憶違いを知った。
 ここでも、先のヒロハアマナのときと同じように撮影会が開かれた。
 この花を撮っていると、丸山の方向から話声が聞こえてきたが、なかなか姿を現さなかった。ようやく現れたと思ったら、タチツボスミレが咲いていたので撮っていたとのことだった。
 これが咲いているのは聞かずとも分かっていた。次の岩の尾根である。この花はあまりにもありふれた花であり、あまり興味は湧かない。
 この岩の尾根では、タチツボスミレはさておき、カテンソウとかヒメウズ゛といった極小の花も咲くには咲く。しかし、これくらい小さな花を撮ろうとしても、今の私の目では綺麗に撮る自信はないので、この尾根はあまり惹きつけられるものはない。
 このとき、タチツボスミレは咲き始めたところであり、数は多くはなかったが、咲くには咲いていた。また、ヒメウズには些か早かったが、カテンソウは赤い蕾の状態で、メシベなどがはじけて飛びだしたものではなかった。
 それよりも、ここへくる前には腹が減っているし、足への疲労もこれまでに味わったものではないものだった。
 このため、「この岩場を登り上がった所でご飯にしよう」ということになり、登り上がって比較的に平らな箇所で用意してきた菓子パンの昼食を摂ることにした。
 ここで食事をしていると、3組ばかりの下山者がやってきた。彼らとの会話で頂上ではセツブンソウが真っ盛りで、セツブンソウは咲き始めたばかりであるとのことだった。その先にはミスミソウが咲いているとの情報を得たが、このときには足がガクガクしており、これらの見慣れた花だけでは萎えた前進意欲を奮い立たせることは無理で、帰ることを考えていた。
 このことを姫君に伝えると、少し残念そうではあったが、敢えて反対はなかったので、もう少し先のピークまで行って、ここを最後に帰ることに決まった。
 この岩場から少し先は、また杉の植林が始まり、この取り付きに小高い部分があるので、ここを頂上に見立てて、ここから帰ることになった。
 このピークに立ったときは13時15分くらいで、帰る時間としてはちょうどよい時間であった。
 15時頃、駐車場に帰ってきたが、足は他人のそれのようで、よくぞ帰れたものだという感想であった。
 足が弱っていることは分かっているが、先の弥勒山に比べて消耗度は激しく、どのような違いがあるかが知りたくなって、帰宅後、地形図で調べてみた。
 弥勒山の場合、標高差330メートル、歩行距離1800メートルである。これに対して、今般は標高差290メートル、歩行距離1550メートルであり、似たようなものである。差が判然としないために数値を平均化してみることにして、平均斜度を算出してみた。これによると、前者が18.3パーセントであるのに対して、後者は18.7パーセントとなり、これとて殆ど際はないことになった。
 なお、弥勒山の場合、大谷山から鞍部まで降って、鞍部から弥勒山山頂まで登り上がるのに対して、今般の丸山は斜度の強弱はあるものの、始めから終りまで登りっぱなしである。これを加味して累積標高差を算出すると登山口から弥勒山までのそれは400mになり、これを基に斜度を算出すると、22.2パーセントとなり、確実にこちらのほうの斜度が大きいことになり、身体に与える影響は明らかに逆である。
 この原因が何処にあるか。いろいろと考えを巡らせた結果、弥勒山は軽い山、丸山は鈴鹿の山でキツイという最初からの先入観があったという心理的な要因が考えられる。このほかに、弥勒山は歩き込まれていて歩き易いが、丸山の場合歩き難い部分が随所に散見され、この積み重ねが足への疲労を増したことも否定できないということも考えられる。
 また、弥勒山の場合は空身で登ったのに対して、丸山へはたいした重量はないとはいえ、久しぶりにザックを担いで登ったという点も疲労を増幅された原因の1つであると考えられる。
 これらが相俟って、途中でギブアップに至った原因だとの結論に達した。
 いずれにしても、これらはトレーニング不足が最大の要因だと考えられる。このように考えを展開すると、もう少し山へ通わなくてはとの結論に達した。
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2018年の初登山 - 2018.03.11 Sun

 3月6日の朝のことだった。
 ここ数年、恒例となっている散歩の途中に、「足がくたびれた」と私が弱音を漏らしたのに対して、姫君から「もう、山には行けないわね」とからかわれた。このことが痛く胸に残ったようだった。
 散歩から帰って、「これから弥勒山へ行こう」という言葉が唐突に口から出ていた。弥勒山が出てきたのには、それなりに理由があった。
 この前々日、私の幼馴染で山仲間でもあるキヌちゃんがわが家に来て、いろいろと思い出話が交わされた。このとき、彼女が「1週間に1度くらいは弥勒山など、里山へ出掛けて足慣らしをしている」との言葉が、このところ山にはご無沙汰の私には強く響いた。
 このような伏線があったので、弥勒山という山の名前が口を突いて出たのであろう。
 弥勒山とは、春日井市と多治見市の境、すなわち愛知県と岐阜県の県境に位置する標高437メートルという低山である。ちなみに、この近くに同じくらいの大谷山や道樹山という山があり、これらを含めて春日井三山と呼ばれているようだ。
 このような手ごろな山でもあり、名古屋市を含めた春日井市近郊の老人には人気の山で、私たちも3、4年前から春先に限って年に2、3回程度、ここへ出掛けるようになった。
 散歩から帰って、直ぐに車に乗って春日井市狭間町の植物園を目指した。
 『こんなことなら散歩を止めて、直接、行けばよかった』と、内心、思っていたが、計画になかったことでもあり、仕方がなかった。
 途中のコンビニで弁当を買うつもりだったが、ここが閉店していた。最近、この地にあったサークルKが潰れたためのことだったが、1年近くもここへはきていないので変わっていても致し方のないことであった。
 また、戻って、別のコンビニで弁当を購入して、植物園の駐車場に到着したときは12時30分で、自宅を出てから1時間が経過していた。こんなことなら、途中で食事をしてくればよかったと後悔したが、車の中で買ってきた弁当を食べてから出発となった。
 植物園の標高は100メートル内外であり、弥勒山までの標高差は330メートルに過ぎず、以前なら何でもなかったというより、登る気にもならなかったが、この1年、山らしい山へ登っていない身には、この300メートルが不安となって重くのしかかってきた。
 でも、別に頂上まで行かなくとも、何なら途中から引き返せばよいと思って、お茶だけ持って歩き始めた。このとき、13時を少し過ぎていた。
 この弥勒山という山は春日井市民の憩いの山とでもいうような山で、平日であるのにかかわらず、駐車場も9割がたが埋まっているでも明らかな如く、多くの人たちが登っているようだが、ここへ登る道も無数にあるので、行きかう登山者はあまり多くはなかった。
 私たちも、何時も頻繁に登る山ではないことに加えて、1年ぶりということもあって、ルートも殆ど忘れていたが、途中、休憩所を通ったので、ここを最初に登ったときと同じルートを採ったことが、ここで初めて分かった。
 ここから先は、少しづつだがルートの記憶が思い出され、どのように登ればよいかが分かってきた。また、これとともに山歩きのコツが無意識だが呼び覚まされてきたようで、そのように歩いていることに気付かされ、それまでの心配は何処かへケシ飛んでいた。
 一方、姫君は肺の一部を失っているだけに、登りでは呼吸が激しくなる傾向が強く、最後までモツかという不安はあった。だが、彼女も術後の経過で、できるかぎり呼吸を激しくならないように歩く術は会得したようで、止めるという弱音を吐くことはなかった。
 休憩所の先から近道2つを通ると、2度目の林道と出合う。ここからは林道を真っ直ぐ進んで弥勒山へのルートと、そのままショートカットを続けて大谷山を経由して弥勒山へ至るルートがある。
 ここで姫君の意向を尋ねるが、どちらでも構わないとのことだったので、大谷山へ直登するショートカットルートを採る。
 ここは大谷山の直前でかなりの急登があったが、このことはスッカリと記憶から抜け落ちていたので、2人ともに少し大変だったが、ペースを落として何とか平坦部の所まで登り上がることができた。
 ここで1人の下山者と行き合った。挨拶を交わすと、彼に「向こうに二股があるが、左手のほうへ行くと何処に行きますか」と尋ねられる。「ここへはあまり来ないので不確かながら、道樹山のほうへ行くのではありませんか」と答えると、彼も納得した。
 ここからは平坦な道が大谷山までの僅かな区間を繋いでいる。下山者と分かれると、直ぐに、二股の所にやってきた。ここには小さなケルンが積んであって、これについては記憶がある。
 これを見ながら、『この道は何処へ通じているのだろう』と考えていると、妻が「これ、池の所へ行く道だわ」という。池というと築水池が頭の中にあるのでピンとこず、余計に訳が分からなくなる。暫くして、この道が鉄塔の建つ頂を経て、椿園へ通じ、ここから駐車場の南側にある池へ行く道だとようやく分かった。この道は、これまでに何度も行き帰りに利用していることも併せて思い出していた。ということは、先の登山者に嘘を教えたことになるが、彼はこの道を通ったわけではないので、まあいいかと思うことにする。
 鈴鹿のように何度も通うことはないので、例え、何度も通っているとはいえ、1年ぶりともなると完全に記憶から消え去ったとしても不思議ではないだろうと変な自己弁護をしていた。
 そして、14時、大谷山(標高425m)に到着した。
 標高は低いとはいえ、山の頂上に立つのはおよそ1年ぶりのことであり、また、このような機会が訪れることは大きくは期待していなかったことも加わって感慨深く、私もまだ捨てたものではなかったとの思いが湧きあがってきた。
 ここから50メートル内外の大降りをして、この大谷山と弥勒山を繋ぐ稜線の鞍部に降りることになる。大降りといっても50メートルである。200メートル、300メートルの大降りと比べると子供のようなものである。しかも、ここは緩やかな降りとあって、足にも、身体にも優しく、快調に降りることができる。
 とはいっても、身体は確実にへばっている。この降りは、これまで降り一方だと思っていたが、そうではなく、途中で軽く登り返す箇所があったことに気付かされた。元気なときは、この程度の登りは登りとは感じなかったということで、身体は確実に衰えていることを思い知らされた一瞬だったともいえ、物悲しくもあった。
 この鞍部からは70メートル弱を一気に登り上がるのだが、ここには木の階段状のものができているので、建物の階段を登るが如くであるが、それでも疲れることには変わりがない。
 この階段も9割がた登ると、階段は大きく向きを変える。すると、ここから頂上が見通せることになり、やっと到着できたことが自覚できる。ここで後ろを振り返ると、姫君がきつそうに10mくらい後から付いてきていた。
 このとき、私の建っている地点から左手の林の中へと踏み跡があるのに気付いた。これまで何回も、ここを通っているが、このような踏み跡があることには気付かなかったが、踏み跡は年季が入っていて新しいものではないので、これまで見過ごしてきたのかもしれない。
 キジ場(便所)だろうかと思ったが、踏み跡があれば確かめたくなるのが人情である。奥へ入っていくと、上のほうへも、下のほうへも踏み跡は続いていた。ならば、階段を登るよりも、こちらを歩いたほうが楽でもあるので、この道を辿って頂上まで行くことにした。正規の登山道のほうを眺めると、姫君が追い付いてきたので、彼女と平行するような形で頂上へ向かって歩いていった。
 こうして、14時30分、弥勒山(標高437m)の頂上に立った。
 本日は天気がよく、ここから遠く離れた御嶽山の雪を被った姿もハッキリと見て取れ、また、頂上の一画に設えられた展望台からは白山(加賀)も、少し霞んではいたがボンヤリと見えていた。
 頂上の椅子に腰をかけて持参したお茶を飲んでいると、私よりも確実に年長だと思われる老人がやってきた。彼は慣れているようで、格別、大変そう素振りでもなかったことに驚き、「お元気ですネ。ところでおいくつですか」と、年齢を尋ねてみた。すると、私との想像とは異なって、「72歳です。ところであなたは」との答えが返ってきた。彼は、私の想像とは異なって、4歳も若かったのだ。この驚きは表に出さず、「負けました。脱帽です。私も頑張らなくては……」と、年少を装って答えておいた。多分、『若いくせにだらしのない奴だ』と、彼は思ったことだろう。
 頂上には5分くらいいただろうか、お茶を飲み、展望台を覗いただけで、直ぐに下山に取り掛かった。
 下山のルートは、取り敢えず先ほど見付けた私たちにとって新しいルート、林の中の踏み跡を辿ってみることにした。この道が、何処へ通じているのかは分からないが、大谷山と弥勒山の鞍部までに登山道へ交わるだろうと見当を付けていた。
 だが、この道は降れども、降れども登山道に交わることはなかった。こうなると頭の中で、この当たりの地形を思い描いてみるが、どうも例の鞍部は既に通り越しているように思える。とすると、何処に出るかが問題ながら、この界隈はそれほど詳しく知っているわけではなく、まったく見当が付かなくなった。こうなれば、最悪の場合には登り返せば済む話しだと割り切るより他に方法はなかった。
 こうして踏み跡を辿っていると、前方に道らしきものが見えてきたが、果たしてこれが道であるか否かと見極められずにいた。すると、そこをグレーチングの溝のカバーがその道らしきものを横断しているのが分かって、林道に出たことを理解、これでひと安心であった。
 この直後、踏み跡は左手にカーブ、その先は林道への急傾斜していた。
 林道に降り立って様子を窺うと、右手が僅かに登り勾配、左手が同じく降りのように感じる。加えて、左手側に登山標識のようなものが10から20メートルくらい先に建てられていた。これを見て、瞬間的に今いる場所が推定でき、これが口を突いて出た。林道から最低鞍部に登る場所であると……。
 しかし、これはあくまで推定であって、違うかもしれない。とにかく、標識の所まで急いだ。すると、やはり私の直感は正しく、『23番・弥勒山➯』と書きこまれていた。
 ここまて来れば、あとはこの林道を降っていけば、至る所に標識が建てられているので、もう何の心配もない。ここからは歩け、歩けで、15時20分頃、駐車場に帰り着いた。
 こうして今年の最初の登山を終了したが、弥勒山の頂上で既にフクラハギとその下のアキレス腱の辺りに痛みを感じていたので、この後遺症、すなわち筋肉痛が心配された。だが、翌日になっても、痛みは出なかった。そういえば、歳を重ねるにつれて痛みが出るのが遅れるということもあると、次の日を心配したが、これは杞憂に終わった。
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フクジュソウが咲き始める - 2018.02.22 Thu

 本日、朝食後に恒例になっている散歩に出かける。
 散歩のコースは、自宅から名城公園、名古屋市役所、名古屋城正門、ナゴヤキャッスルホテルを通って自宅に戻るという周回コースで、1周5キロメートル内外を50分くらいかけて歩いている。ちなみに、このコースを散歩で歩き始めた頃は、1周を45分くらいで歩いていたのが、何時の間にか5分ばかり遅れるようになっている。それだけ足の動きが悪くなったようである。
 本日、何時ものように歩いていると、名城公園の手前で姫君が、「フクジュソウを見てみようか」という。
 前回、何時だったかは忘れたが、ここを訪れたときには、影も形も見えなかったが、このときからだいぶ経っているし、このところ天気も良い日が続いていることもあって、『ひょっとしたら咲いているかも……』との思いもあって、寄り道をすることに同意、公園の中へ入っていった。
 公園法が改正されて公園の中に店舗を建てて良くなったとかで、この公園の中にも貸店舗1棟が建てられて、ここに喫茶店、食堂、コンビニ、スポーツシューズ店などが入店、以前に比べると異なった活況を呈している。また、これら店舗の集客を図るためか、種々の催しが企画されるらしく、本日は撮影会でも行われるのか、撮影設備を広場に広げて準備に余念がなかった。
 これを横目に、フクジュソウが植えられている花壇へと歩みを進めた。
 フクジュソウは、この林の中、2ヶ所ばかりに植え込みが造られているが、今年はどんな具合だろうと心がときめく。目指す場所に近付くと、昨年、フクジュソウが咲いていた場所に黄色い固まりが見えていて、今年も健在であることが分かった。ここで確認して、もう1ヶ所にも足を伸ばすと、日当たりの悪いほうのこちらも、前の所に比べると小さいものではあったが、5、6輪が花を開いていた。
 今年は前年に比べると、寒さは厳しいように感じられ、これらの開花は遅れるのではないかと思っていたが、春の訪れを確実に先取りして花を咲かせるフクジュソウを見るにつけ、厳しい寒さだと感じるのは私だけのことかもしれないとの思いが頭をもたげてきた。
 散歩が終わって自宅へ帰るが、先ほどのフクジュソウのことが頭から離れず、その足でカメラを持って、再度、名城公園へ訪れる。
 フクジュソウを撮影して、辺りをグルッと回ってみると、マンサク、ロウバイ、ミツマタの木の花は花を付け始めていた。この調子なら草花も咲いているかもしれないと思って探してみると、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウなどなど、早春を彩る花々が顔を覗かせていた。
 まだ、まだ、寒いが、山野草は寒いとはいわずにこうして活動を開始している。私も負けてはおれず、ボチボチと動き始めなくては思った次第である。
2018_02_22 フクジュソウ

5冊目の本 - 2018.02.21 Wed

 昨年以来、『北海道の花旅』に続き、私の5冊目の著書となる本の執筆に取り組んできた。途中、北海道行きの中断はあったが、概ね、1年をかけて書き上げ、1月末をもって上梓するまでに漕ぎつけた。
 内容を一言でいえば、花の随筆である。
 花に興味を持ち始めたのが何時のことかはハッキリとしないが、本格化したのは、2005年にデジタルカメラを購入してからのことである。したがって、本格的に花の写真を撮り始めて13年を数えることになる。
 この間、撮り溜めた写真の数も数えきれないくらい、何しろ、パソコンのHCCのCドライブの容量が900ギガバイト(GB)に対して、空き容量は120GBという状態からみてもある程度は推定が付けられる。
 前々から花についての本を作ってみたいという夢はあったが、花についての知識は無きに等しいということもあって、当然のことながら専門的なものは書くことはできない。
 そこで考えた結果、花についての思いで、出合った時の様子などを書きとめるということであれば、素人でも書くことができるという結論に達し、この要領で文章を書くことにした。いわゆる、花についての随筆という形式を採ることにした。
 次いで、採り上げる花はどうするかである。
 いろいろと試行錯誤の結果、第1部を鈴鹿の山に咲く花を中心とする山野草、第2部としてアルプスなどで見た高山植物という構成にした。これらに採り上げる花であるが、上げればきりがなくなる。とはいっても、無制限にしてはコストも多くなるし、少な過ぎても本のボリュウムが貧弱になる。これらを勘案して第1部の山野草を100種、第2部の高山植物を80種とした。
 これらの花を見開き2ページに1種類づつを採り上げると、180種で360ページ、前書、目次などの付属ページがついて、総ページ数382ページというボリュームになった。
 これらの花の写真はカラー写真にしたいが、前著の『北海道の花旅』の際はカラー写真の印刷費の負担に耐えられずに、印刷業者に任せることを諦めて自分で印刷した。本著はこれよりもカラー写真の枚数が多いだけに、専門業者に印刷を任せるのは無理なことは分かっているが、懲りもせずに見積もりを依頼している。
 さて、どうなるかは分からないが、現在までに自分で印刷ならびに製本したもの2冊が出来上がっている。
DSC_8994.jpg

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