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2018-06

丸山までは遠かった - 2018.03.18 Sun

 3月14日(水曜日)の9時少し前、予定どおりに自宅を出発して鈴鹿に向かって車を走らせた。
 このところ春そのものという天気が続き、気温も高くなっていて、桜の開花予想も例年を1週間から10日も早まるとテレビでは報じられていた。さしもの寒く厳しい今年の冬もようやく過ぎ去ったかのようである。
 これだけ暖かくなれば鈴鹿の花も咲き始めただろうと見当を付けて、この日の2日前から山行きを予定していたのだ。
 だが、先に登った弥勒山、大谷山では思っていた以上の結果であったが、これらの山々に比べると鈴鹿の山はどの山でも簡単に比較することはできない厳しさがあるということで、不安は付きまとうが、これを振り切っての出発であった。
 目指す山は藤原岳の南側の尾根、丸太尾根の上にある丸山である。
 ここへの登山口は、いなべ市新町にある。この丸山へは、数えきれないくらいに通っているので、1年ぶりだとはいっても、道順は頭の中に入っていて間違える心配は皆無だといってもよい。
 途中、順調に走ることができ、10時30分過ぎに登山口である新町の集落の墓地にやってきた。
 ここに着き、辺りを見回して驚いた。
 10数台は駐車ができる墓地の前の駐車場は満車。墓地の南側の空地も6、7台が、これ以外にも墓の中や、最奥の水道施設の前までも入口を塞ぐ形で車が停められていた。仕方がないので、出入口近くの路肩に駐車せざるを得なかった。
 ここ孫太尾根は、花を狙った登山者が春先に押し掛けるので、休日には大賑わいすることはある程度考えられるが、この日は平日である。まさか、これだけの人々が押し掛けているとは思いもしなかった。
 私たちのような暇を持て余した老人が、増えた結果であろうことは容易に推定できるが、それにしても多い。
 ここで身支度を整える。とはいっても、私も姫君も身支度といっても特別に着替えることはなく、家を出たときのままの姿であった。ちなみに、私のいでたちはというと、上が長袖のシャツにスポーツシャツ、下がパンツとジーンズ、靴は普段ばきのレザーシューズというもので、家にいるときと変わらない姿である。
 荷物は、2リットルのウーロン茶1本、カメラ2台と三脚のみである。大きいカメラ2台はかさばるので、ザックだけは何時もの45リットルを担いで行くことにした。ちなみに、姫君は街中でも外出時に持つリュックサック型のパックで、中には本日の2人分の昼食用の菓子パンが入っていた。
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 こうして準備が完了、10時40分、直ちに歩き始めた。
 墓地の奥にある新町集落の簡易水道の給配水施設の横を通り抜けて林の中に入ると直ぐに左折する明瞭な踏み跡が付いているので、これに沿って林の中へ入っていく。ここが登山口である。
 今は、このような分かり易い道ができあがっているが、私たちがこの孫太尾根を最初に歩いたときには、まず、この墓地に辿り着くまでが大仕事であった。
 新町の住民に尋ねても、孫太尾根という名前は浸透していないので分からない。墓地の所が登山口だと聞いていたので、このことを話すと、「私たちも墓参りに行くので付いてこい」と、自転車に乗って走りだす。小走りに付いていくと、墓だといっても別の墓だった。
 その後、ようやくこの墓地を探し当てるが、今度は道が分からない。踏跡など、まったく付いていないので、知っている人しか分からない。仕方がないので、林道の終点から右手の尾根へ樹の幹や根っこを掴んでようようのことで孫太尾根に登り上がる。そして、藤原岳を目指した。
 最初は、こんな具合で、その後の2、3度は同じように道なき道をよじ登った末にようやく登山道を見付け出した。
 だが今は、このようなハッキリとした道ができている。月日の経過というのは恐ろしいほどの変化を生むものである。こんなことを考えて林の中を歩いていると、何時の間にか孫太尾根の支尾根に乗ったようで、歩く道に勾配が付き始めた。
 間もなく、右手に炭焼釜跡が現れてきた。
 最初の頃、何度目かは不詳だが、林道がなくなっても暫らく、林道の延長線上を辿った末、上方向へ進路を採って孫太尾根へ向かったことがある。このとき、先のほうにこの釜跡があって、その先に道らしきものが見えていて、現在の登山道を発見したという経緯があった。このため、この釜跡は私たちにとっては忘れもしない記念の場所でもある。
 とはいえ、本日、改めて釜跡を眺めてみると、荒廃が進んでいて注意深く観察しないと釜跡には見えないようになっている。
 ここを過ぎると、道の勾配は急になってくる。先に歩いた弥勒山の登山道に比べる急であるのと、滑り易いことも加わって、歩き難いこと、この上ない。
 これを登りきると、辺りは少し平坦な広場状になっており、神武神社跡という極小の石の碑が建てられている。
 ここには、以前、神武神社というお宮さんが祀られていて、この下の新町の住民が氏子になっていて、参詣路も設けられていたらしい。ちなみに、この参詣路は現在の登山道とは少し異なっていたらしいが、これについての詳細は不詳である。
 この神社は、何時の頃かは不詳ながら、下へ移されたということだが、移転先については審らかでない。藤原岳の代表的な登山道の1つである表登山道(大貝戸登山道)の登山口に神武神社が祀られているが、こがここの神社と同じであるか否かは定かでない。
 何れにしても、私たちが、ここに初めてやってきたときには既にお宮はなかったことだけは確かである。
 ここまで登ってくると、妻の呼吸は荒くなっていて休憩を要求するので、ここでお茶休憩、この機を利用して妻はフリースのベスト1枚を脱ぎ、私のザックの中へ収まることになった。
 ここから暫くの間、また、急登となる。というより、ここから暫らくは定まった道というものが確立していないため、てんで(ん)バラバラの状態で登っている。このため、脚力のある者は直登、私たちのように足の弱い者にとってはあまり足に負担のかからないように遠回りして登ることになる。このように登るので踏み跡は一定せず、何時まで経っても踏み跡が道とならないのだ。こういう区間は、私たちにとっては辛い区間となっている。言い方を変えると、真っ直ぐに登り上がることができなくなった私たちには大いに堪える。
 しかし、この区間も短く、間もなく、踏み跡は左端に寄ってくると、また、道の体裁を取り戻すことになり、難所は通り越したことになった。
 道は稜線と交わった。この稜線が孫太尾根で、これが藤原岳まで続いている。ちなみに、この稜線の上には、神武、丸山、草木、多志田山、藤原岳(展望の丘)と続いている。
 このため、先ずは手始めに右手に続く登りをこなせば神武であるが、何もこのような労力を使わずとも神武から降った場所へ通じる抜け道が設けられているので、この道を辿る。
 ここからは尾根歩きになり、これまでのような急登はせずともよくなり、加えて道もよく踏み締められた歩き易いものとなるので、ヤレヤレと胸を撫で下ろすことになった。
 ここからは、なかなかそれとは気付かないが、青川沿いの道、尾根を歩くことになる。所々に左下が切れ落ちている所があり、このような場所では、このことが実感できる。このことを気にするようになったのは、雪の季節に進むルートが分からなくなった時に、このことを知っておくと大いに役立つためである。
 薄暗いくらいの樹林が明るくなって、登り勾配が強くなると、これを登りつめた所で尾根の乗り換えになる。登りでは1本の尾根だが、降りの場合は、今、歩いている尾根と、青川に急激に落ち込んでいる尾根が分かれる所である。
 この尾根を登り上がった所が、ヒロハアマナが固まって咲いている場所だが、果たして、今年はどんな具合であろうと、期待を込めて歩いていく。
 足下に注意を払って歩いていくと、まず、最初の花が見付かり、「あった」と声を上げる。別に、姫君に伝えるために上げたものではなく、自然に口を突いて出たもの、安心の裏返しでもあった。
 ここ数日、暖かい日が続き、本日も晴天に加えて無風という願ってもない天気が味方したのか、こうして1つが見付かると次々とこの花が見付かった。
 ここでザックを降ろして撮影会の開催となるのは何時ものパターンである。
 ひと通りの撮影が終わると、今度は2つが一緒に咲いているものがないかを探し始めた。だが、欲張ったことを望んでも、そうは問屋が卸さなかった。これを見付けるのを諦めて、再び、ザックを担いで歩き始める。
 ここから疎林を抜けると、小石のゴロゴロとした急な尾根があり、その次の岩の尾根を終えた所にセリバオウレンの咲く場所があるので、ここへ急いだ。
 小石の尾根を過ぎると、また杉の植林である。この杉の植林の出外れにセリバオウレンが咲いていた。
 セリバオウレンは、岩の尾根を過ぎた所だと記憶していたのが違っており、小石の尾根と岩の尾根の間にあったのだと、このとき初めて記憶違いを知った。
 ここでも、先のヒロハアマナのときと同じように撮影会が開かれた。
 この花を撮っていると、丸山の方向から話声が聞こえてきたが、なかなか姿を現さなかった。ようやく現れたと思ったら、タチツボスミレが咲いていたので撮っていたとのことだった。
 これが咲いているのは聞かずとも分かっていた。次の岩の尾根である。この花はあまりにもありふれた花であり、あまり興味は湧かない。
 この岩の尾根では、タチツボスミレはさておき、カテンソウとかヒメウズ゛といった極小の花も咲くには咲く。しかし、これくらい小さな花を撮ろうとしても、今の私の目では綺麗に撮る自信はないので、この尾根はあまり惹きつけられるものはない。
 このとき、タチツボスミレは咲き始めたところであり、数は多くはなかったが、咲くには咲いていた。また、ヒメウズには些か早かったが、カテンソウは赤い蕾の状態で、メシベなどがはじけて飛びだしたものではなかった。
 それよりも、ここへくる前には腹が減っているし、足への疲労もこれまでに味わったものではないものだった。
 このため、「この岩場を登り上がった所でご飯にしよう」ということになり、登り上がって比較的に平らな箇所で用意してきた菓子パンの昼食を摂ることにした。
 ここで食事をしていると、3組ばかりの下山者がやってきた。彼らとの会話で頂上ではセツブンソウが真っ盛りで、セツブンソウは咲き始めたばかりであるとのことだった。その先にはミスミソウが咲いているとの情報を得たが、このときには足がガクガクしており、これらの見慣れた花だけでは萎えた前進意欲を奮い立たせることは無理で、帰ることを考えていた。
 このことを姫君に伝えると、少し残念そうではあったが、敢えて反対はなかったので、もう少し先のピークまで行って、ここを最後に帰ることに決まった。
 この岩場から少し先は、また杉の植林が始まり、この取り付きに小高い部分があるので、ここを頂上に見立てて、ここから帰ることになった。
 このピークに立ったときは13時15分くらいで、帰る時間としてはちょうどよい時間であった。
 15時頃、駐車場に帰ってきたが、足は他人のそれのようで、よくぞ帰れたものだという感想であった。
 足が弱っていることは分かっているが、先の弥勒山に比べて消耗度は激しく、どのような違いがあるかが知りたくなって、帰宅後、地形図で調べてみた。
 弥勒山の場合、標高差330メートル、歩行距離1800メートルである。これに対して、今般は標高差290メートル、歩行距離1550メートルであり、似たようなものである。差が判然としないために数値を平均化してみることにして、平均斜度を算出してみた。これによると、前者が18.3パーセントであるのに対して、後者は18.7パーセントとなり、これとて殆ど際はないことになった。
 なお、弥勒山の場合、大谷山から鞍部まで降って、鞍部から弥勒山山頂まで登り上がるのに対して、今般の丸山は斜度の強弱はあるものの、始めから終りまで登りっぱなしである。これを加味して累積標高差を算出すると登山口から弥勒山までのそれは400mになり、これを基に斜度を算出すると、22.2パーセントとなり、確実にこちらのほうの斜度が大きいことになり、身体に与える影響は明らかに逆である。
 この原因が何処にあるか。いろいろと考えを巡らせた結果、弥勒山は軽い山、丸山は鈴鹿の山でキツイという最初からの先入観があったという心理的な要因が考えられる。このほかに、弥勒山は歩き込まれていて歩き易いが、丸山の場合歩き難い部分が随所に散見され、この積み重ねが足への疲労を増したことも否定できないということも考えられる。
 また、弥勒山の場合は空身で登ったのに対して、丸山へはたいした重量はないとはいえ、久しぶりにザックを担いで登ったという点も疲労を増幅された原因の1つであると考えられる。
 これらが相俟って、途中でギブアップに至った原因だとの結論に達した。
 いずれにしても、これらはトレーニング不足が最大の要因だと考えられる。このように考えを展開すると、もう少し山へ通わなくてはとの結論に達した。
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2018年の初登山 - 2018.03.11 Sun

 3月6日の朝のことだった。
 ここ数年、恒例となっている散歩の途中に、「足がくたびれた」と私が弱音を漏らしたのに対して、姫君から「もう、山には行けないわね」とからかわれた。このことが痛く胸に残ったようだった。
 散歩から帰って、「これから弥勒山へ行こう」という言葉が唐突に口から出ていた。弥勒山が出てきたのには、それなりに理由があった。
 この前々日、私の幼馴染で山仲間でもあるキヌちゃんがわが家に来て、いろいろと思い出話が交わされた。このとき、彼女が「1週間に1度くらいは弥勒山など、里山へ出掛けて足慣らしをしている」との言葉が、このところ山にはご無沙汰の私には強く響いた。
 このような伏線があったので、弥勒山という山の名前が口を突いて出たのであろう。
 弥勒山とは、春日井市と多治見市の境、すなわち愛知県と岐阜県の県境に位置する標高437メートルという低山である。ちなみに、この近くに同じくらいの大谷山や道樹山という山があり、これらを含めて春日井三山と呼ばれているようだ。
 このような手ごろな山でもあり、名古屋市を含めた春日井市近郊の老人には人気の山で、私たちも3、4年前から春先に限って年に2、3回程度、ここへ出掛けるようになった。
 散歩から帰って、直ぐに車に乗って春日井市狭間町の植物園を目指した。
 『こんなことなら散歩を止めて、直接、行けばよかった』と、内心、思っていたが、計画になかったことでもあり、仕方がなかった。
 途中のコンビニで弁当を買うつもりだったが、ここが閉店していた。最近、この地にあったサークルKが潰れたためのことだったが、1年近くもここへはきていないので変わっていても致し方のないことであった。
 また、戻って、別のコンビニで弁当を購入して、植物園の駐車場に到着したときは12時30分で、自宅を出てから1時間が経過していた。こんなことなら、途中で食事をしてくればよかったと後悔したが、車の中で買ってきた弁当を食べてから出発となった。
 植物園の標高は100メートル内外であり、弥勒山までの標高差は330メートルに過ぎず、以前なら何でもなかったというより、登る気にもならなかったが、この1年、山らしい山へ登っていない身には、この300メートルが不安となって重くのしかかってきた。
 でも、別に頂上まで行かなくとも、何なら途中から引き返せばよいと思って、お茶だけ持って歩き始めた。このとき、13時を少し過ぎていた。
 この弥勒山という山は春日井市民の憩いの山とでもいうような山で、平日であるのにかかわらず、駐車場も9割がたが埋まっているでも明らかな如く、多くの人たちが登っているようだが、ここへ登る道も無数にあるので、行きかう登山者はあまり多くはなかった。
 私たちも、何時も頻繁に登る山ではないことに加えて、1年ぶりということもあって、ルートも殆ど忘れていたが、途中、休憩所を通ったので、ここを最初に登ったときと同じルートを採ったことが、ここで初めて分かった。
 ここから先は、少しづつだがルートの記憶が思い出され、どのように登ればよいかが分かってきた。また、これとともに山歩きのコツが無意識だが呼び覚まされてきたようで、そのように歩いていることに気付かされ、それまでの心配は何処かへケシ飛んでいた。
 一方、姫君は肺の一部を失っているだけに、登りでは呼吸が激しくなる傾向が強く、最後までモツかという不安はあった。だが、彼女も術後の経過で、できるかぎり呼吸を激しくならないように歩く術は会得したようで、止めるという弱音を吐くことはなかった。
 休憩所の先から近道2つを通ると、2度目の林道と出合う。ここからは林道を真っ直ぐ進んで弥勒山へのルートと、そのままショートカットを続けて大谷山を経由して弥勒山へ至るルートがある。
 ここで姫君の意向を尋ねるが、どちらでも構わないとのことだったので、大谷山へ直登するショートカットルートを採る。
 ここは大谷山の直前でかなりの急登があったが、このことはスッカリと記憶から抜け落ちていたので、2人ともに少し大変だったが、ペースを落として何とか平坦部の所まで登り上がることができた。
 ここで1人の下山者と行き合った。挨拶を交わすと、彼に「向こうに二股があるが、左手のほうへ行くと何処に行きますか」と尋ねられる。「ここへはあまり来ないので不確かながら、道樹山のほうへ行くのではありませんか」と答えると、彼も納得した。
 ここからは平坦な道が大谷山までの僅かな区間を繋いでいる。下山者と分かれると、直ぐに、二股の所にやってきた。ここには小さなケルンが積んであって、これについては記憶がある。
 これを見ながら、『この道は何処へ通じているのだろう』と考えていると、妻が「これ、池の所へ行く道だわ」という。池というと築水池が頭の中にあるのでピンとこず、余計に訳が分からなくなる。暫くして、この道が鉄塔の建つ頂を経て、椿園へ通じ、ここから駐車場の南側にある池へ行く道だとようやく分かった。この道は、これまでに何度も行き帰りに利用していることも併せて思い出していた。ということは、先の登山者に嘘を教えたことになるが、彼はこの道を通ったわけではないので、まあいいかと思うことにする。
 鈴鹿のように何度も通うことはないので、例え、何度も通っているとはいえ、1年ぶりともなると完全に記憶から消え去ったとしても不思議ではないだろうと変な自己弁護をしていた。
 そして、14時、大谷山(標高425m)に到着した。
 標高は低いとはいえ、山の頂上に立つのはおよそ1年ぶりのことであり、また、このような機会が訪れることは大きくは期待していなかったことも加わって感慨深く、私もまだ捨てたものではなかったとの思いが湧きあがってきた。
 ここから50メートル内外の大降りをして、この大谷山と弥勒山を繋ぐ稜線の鞍部に降りることになる。大降りといっても50メートルである。200メートル、300メートルの大降りと比べると子供のようなものである。しかも、ここは緩やかな降りとあって、足にも、身体にも優しく、快調に降りることができる。
 とはいっても、身体は確実にへばっている。この降りは、これまで降り一方だと思っていたが、そうではなく、途中で軽く登り返す箇所があったことに気付かされた。元気なときは、この程度の登りは登りとは感じなかったということで、身体は確実に衰えていることを思い知らされた一瞬だったともいえ、物悲しくもあった。
 この鞍部からは70メートル弱を一気に登り上がるのだが、ここには木の階段状のものができているので、建物の階段を登るが如くであるが、それでも疲れることには変わりがない。
 この階段も9割がた登ると、階段は大きく向きを変える。すると、ここから頂上が見通せることになり、やっと到着できたことが自覚できる。ここで後ろを振り返ると、姫君がきつそうに10mくらい後から付いてきていた。
 このとき、私の建っている地点から左手の林の中へと踏み跡があるのに気付いた。これまで何回も、ここを通っているが、このような踏み跡があることには気付かなかったが、踏み跡は年季が入っていて新しいものではないので、これまで見過ごしてきたのかもしれない。
 キジ場(便所)だろうかと思ったが、踏み跡があれば確かめたくなるのが人情である。奥へ入っていくと、上のほうへも、下のほうへも踏み跡は続いていた。ならば、階段を登るよりも、こちらを歩いたほうが楽でもあるので、この道を辿って頂上まで行くことにした。正規の登山道のほうを眺めると、姫君が追い付いてきたので、彼女と平行するような形で頂上へ向かって歩いていった。
 こうして、14時30分、弥勒山(標高437m)の頂上に立った。
 本日は天気がよく、ここから遠く離れた御嶽山の雪を被った姿もハッキリと見て取れ、また、頂上の一画に設えられた展望台からは白山(加賀)も、少し霞んではいたがボンヤリと見えていた。
 頂上の椅子に腰をかけて持参したお茶を飲んでいると、私よりも確実に年長だと思われる老人がやってきた。彼は慣れているようで、格別、大変そう素振りでもなかったことに驚き、「お元気ですネ。ところでおいくつですか」と、年齢を尋ねてみた。すると、私との想像とは異なって、「72歳です。ところであなたは」との答えが返ってきた。彼は、私の想像とは異なって、4歳も若かったのだ。この驚きは表に出さず、「負けました。脱帽です。私も頑張らなくては……」と、年少を装って答えておいた。多分、『若いくせにだらしのない奴だ』と、彼は思ったことだろう。
 頂上には5分くらいいただろうか、お茶を飲み、展望台を覗いただけで、直ぐに下山に取り掛かった。
 下山のルートは、取り敢えず先ほど見付けた私たちにとって新しいルート、林の中の踏み跡を辿ってみることにした。この道が、何処へ通じているのかは分からないが、大谷山と弥勒山の鞍部までに登山道へ交わるだろうと見当を付けていた。
 だが、この道は降れども、降れども登山道に交わることはなかった。こうなると頭の中で、この当たりの地形を思い描いてみるが、どうも例の鞍部は既に通り越しているように思える。とすると、何処に出るかが問題ながら、この界隈はそれほど詳しく知っているわけではなく、まったく見当が付かなくなった。こうなれば、最悪の場合には登り返せば済む話しだと割り切るより他に方法はなかった。
 こうして踏み跡を辿っていると、前方に道らしきものが見えてきたが、果たしてこれが道であるか否かと見極められずにいた。すると、そこをグレーチングの溝のカバーがその道らしきものを横断しているのが分かって、林道に出たことを理解、これでひと安心であった。
 この直後、踏み跡は左手にカーブ、その先は林道への急傾斜していた。
 林道に降り立って様子を窺うと、右手が僅かに登り勾配、左手が同じく降りのように感じる。加えて、左手側に登山標識のようなものが10から20メートルくらい先に建てられていた。これを見て、瞬間的に今いる場所が推定でき、これが口を突いて出た。林道から最低鞍部に登る場所であると……。
 しかし、これはあくまで推定であって、違うかもしれない。とにかく、標識の所まで急いだ。すると、やはり私の直感は正しく、『23番・弥勒山➯』と書きこまれていた。
 ここまて来れば、あとはこの林道を降っていけば、至る所に標識が建てられているので、もう何の心配もない。ここからは歩け、歩けで、15時20分頃、駐車場に帰り着いた。
 こうして今年の最初の登山を終了したが、弥勒山の頂上で既にフクラハギとその下のアキレス腱の辺りに痛みを感じていたので、この後遺症、すなわち筋肉痛が心配された。だが、翌日になっても、痛みは出なかった。そういえば、歳を重ねるにつれて痛みが出るのが遅れるということもあると、次の日を心配したが、これは杞憂に終わった。
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藤原岳 - 2017.04.16 Sun

 一昨日、4月14日の朝、「天気もよさそうだから、山へ行ってみる?」と、姫君に水を向けてみる。多分、断られるだろうと思っていたが、案に相違して、「何処へ?」と乗ってきた。シメシメと思いつつも、これを顔には出さずに、「孫太尾根か、藤原岳。どちらがいい?」と彼女の意黄を尋ねる。
 どちらでも良いという返事だったので、あれこれ思案して、花の種類が多いことが期待できる藤原岳に決めた。
 私にとって今年の山行きは、3月9日の丸山(孫太尾根)、3月12日の藤原岳、3月16日の入道ヶ岳である。これに対して姫君は、この内3月12日の藤原岳以来の1ヶ月ぶりということになる。なお、このときの藤原岳は、7合目からの登山道には踏み固められた雪に覆われていたので、ここから引き返している。
 ちなみに、これまでの花の収穫について述べておく。
 丸山では、途中のセリバオウレン、頂上のセツブンソウとフクジュソウだったが、これらはまだ咲き始めたばかりで、目を凝らして探さなければならないという状態であった。
 藤原岳の7合目までは、花は何も見付け出すことはできなかった。
 入道ヶ岳は、目的のフクジュソウには出合うことができたが、その他については何もなかった。
 このような状態で、鈴鹿の花は例年よりも遅い感じである。4月半ばといえど、今年は3月に何度も雪が降ったようでもあり、思ったように花が咲いているかは何とも言えないが、これまでのようなことはなかろうと考えて、9時前に自宅を出発した。
 この日は金曜日。平日の朝方ということもあって道は混んでいたが、渋滞箇所はなく、概ね順調に走ることができ、10時過ぎには大貝戸登山口の駐車場に到着する。
 平日とはいえ、この時間帯では駐車場が空いているか、否かが心配であった。到着してみると、やはりこの不安は的中。空きスペースはまったく残っていなかった。
 ここが満車の場合は、ここから歩いて7、8分の所にある観光駐車場を使用するのが常であるが、このときはここまで行くことはなく、登山口近くの墓地入口付近に駐車スペースが残っていたので、ここに路上駐車する。
藤原岳a
 10時35分、身支度を整え終えて、登山口を歩き始める。
 本日は黄砂がきているのか、モヤがかかっているのか判然としない。このため、一応、晴れてはいるようだが、カラッとした晴れではなく、薄日が差し込んでいるような柔らかな日差しである。
 でも、結構、気温は高いようで、半袖のTシャツの上に薄手のスポーツシャツという姿でも寒くはない。
 現在の登山口は神武神社の鳥居下で、ここから神社の境内を縦断する形で進んで行くと、大きな川の左岸に行き当たる。
 ここから右手に採ると、ここから先は昔からの登山道で、迷おうにも迷いようのない立派な道が続いている。藤原岳へ通じる登山道は幾つもあるが、この大貝戸道というのが、その中にあって最もポピュラーな登山道であり、登山者の8割がたが使用しているといっても過言でない。
 この登山道を簡単に説明する。
 まずは標高であるが、登山口が160m、8合目が850m、10合目の避難小屋が1070mである。なお、藤原岳は幾つもの頂を持つ山で、登山者が頂上と呼んでいるのが『展望の丘』で、ここの標高は1140余mである。ちなみに、頂上の標高が判然としないのは、ここは国土地理院の測量が行われていないため、標高線から推定した数字に過ぎないので、余mという表示を余儀なくされるのだ。
 また、この間の距離を地形図から計ってみると、登山口から8合目が2270m、8合目から避難小屋までが760mで、登山口が避難小屋までを通しでは3030mということになる。
 なお、昭文社の『山と高原地図』におけるコースタイムは、登山口から避難小屋までの往路が120分、復路が75分となっている。
 本日の狙いの花は、キクザキイチゲである。これにどれくらいの花が加わるかというところだ。狙いの花は8合目以遠に咲くので、何とか、ここまでは辿り着きたいが、ここまでは標高も距離も現在の私の体力では、限界ぎりぎりのところで、果たして辿り着けるか否か、微妙である。
 また、姫君もリハビリ中の身では、私と似たりよったりというところなので、とにかく行ける所まで行ってみようと思っての出発であった。
 ここの登山道は、ポピュラーなものだけに、誰にでも手軽に登ることができるようにキツイ勾配の所はジグザグに切ることによって同じような勾配を保っているので、比較的に楽に登ることができる。このため、体力に自信のあった頃は、この道は不遜にも馬鹿にしていたところがあって、縦走の帰りに使う程度で利用度は低かった。
 だが、最近ではこの道でさえも、もてあまし気味である。こうなると、以前は何でもなかった道でも、結構、急な勾配で、それがずっと継続していることを気付く次第であった。
 こんなことを考えながら歩みを進めていると、道の左手にミヤマカタバミが咲いているのに出合う。
 この花の葉っぱが、わが三太夫家の家紋に使われていることから、馴染みの深い花である。とはいえ、これは気温とか日差しとか、気象条件に左右される確率が高く、なかなか綺麗な状態でお目にかかることは少ない花である。ここは樹林の中で、日差しという意味では充分でないのにかかわらず、綺麗に花びらを開いているものが多く、稀に見る良い状態であった。
 以前なら、これを見れば大喜びしてザックからカメラを取り出すところだが、今は歩き始めて間もない頃に道草を食っていては上まで辿り着けないと危惧するのだろう。7合目辺りで撮ればいいと思い、これは横目に見るだけで、歩みを停めることはなかった。
 間もなく、2合目の標識が見えてきた。ここに、以前、ミノコバイモが咲いていたことがある。だが、これは1年限りに終わって、以後、ここに咲いているのを見たことがない。それでも万が一ということを考える助平心が働くので、以前、咲いていた場所に立ち寄って探してみるが、そんなに都合よくはことは運ばなかった。
 先ほどのミヤマカタバミは形の良い花があっても立ち止まらなかったのが、ミノコバイモとなると咲いていないことは分かっていても探すという違いは不思議に思う向きもあろうから説明すると、前者は珍しい花ではなく、ある場所にはいっぱい咲くが、後者は見られたとしても年間で10個もあれば良い方という希少価値があるためのことである。
 4合目にやってきた。
 ここには倒木のベンチがあり、一服するのに適している。ここで一休みしたついでに、スポーツシャツを脱ぎ、半袖のTシャツ1枚の姿になる。素肌をさらした腕にあたる風はやや冷たさを感じるが、寒さよりも気持ち良さを感じる。
 ここを過ぎると、いよいよ花が顔を覗かせるのが、何時ものことだ。
 スミレとか、ニシキゴロモを思い描いていたが、最初に登場したのがカンアオイであった。それも少し変わったカンアオイであった。見付けたのは姫君で、その第一声が、「変わった形のカンアオイよ」であった。近寄って見てみると、なるほど、今まで見てきたみものとは色が少し異なっていた。『スズカカンアオイというものがある。それではないか』と思い、後に調べてみると、やはりスズカカンアオイだった。
 ここから少し離れた所に、予定どおりにタチツボスミレがあったが、数は思っていたより少なく、咲き始めて間もない頃だと推定される。
 続いて5合目を過ぎた辺りでニシキゴロモも現れたが、これもまだ花付きの少ない、小さな株であった。
 4合目から5合目過ぎまでは、この山に多い杉の植林ではなく、雑木林であったが、再び、植林の中へ入っていく。すると、姫君が立ち止まり、「近道を行く?」と尋ねるので、「いや、真っ直ぐ、楽なほうから」と私が答えた。この頃になると、私の足は軋み始め、ギシギシという音が耳からも聞こえるような錯覚に陥っていた。
 ここで下山者に出会い、言葉を交わす。それによると、避難小屋の裏手の広場で1輪だけだが青色のキクザキイチゲを見付けたこと、また、これまた1輪だけだったが小屋前でミノコバイモが咲いていたとのことだった。
 キクザキイチゲは、咲いているとしたら咲く場所は分かっているので、それほどの朗報ではなかったが、ミノコバイモは年によって咲く場所が異なるので、お目にかかるのは運が左右する。このため、このニュースは私の萎える登高意欲を奮い立たせる役目を果たしてくれたようで、それまで8合目で引き返そうかと逡巡していたのが、この瞬間、何処かへ飛んで行ってしまった。
 13時07分、8合目にやってきた。出発が10時35分だったので、ここまで2時間30分もかかったことになる。
 ここにザックを降ろして、花を探しに出かけてみる。ここでも過去にミノコバイモ、カタクリなどに対面しているので、2匹目のドジョウを狙ったのだが、諺どおりに空振りに終わる。でも、ヒロハアマナだけはミニ群生を見せてくれていて、空振り三振ではなく、言うならば振り逃げ成功とでもいうのだろうか。
 先ほどの耳寄りな話を聞いてから、私はここから帰るという思いはなくなっていたが、姫君の体調もあるので、私の思いだけで行動はできない。このため、彼女の意向を尋ねると、「これが最後になるかも知れないから行く」というものだった。
 ここ8合目にはセリバオウレンが群生するが、この場所にはロープを張って立ち入れないようにしてある。最近、誰が決めるのか、こんな無粋なことをするところが多いが、ここでは立ち入ることなく、登山道脇で見付かった。
 次はトウゴクサバノオだが、これは時期が早かったか、見付けるには至らなかった。でも、この代わりといっては変だが、ミスミソウが見付かった。
 また、ここからは、この山を全国的に有名にしたフクジュソウが点々と咲いていた。入道ヶ岳では1ヶ月も前に見ており、ここも終わりに近いか、既に終わったと思っていたが、まだ、蕾状のものもあり、この先も楽しめそうな雰囲気であり、明らかに入道ヶ岳に比べると遅れている。とはいうものの、ここでも花びらを散らすものもあるので、一概に断定することはできないが……。
 とある場所で白い花、ミスミソウを見付けたが、花びらが閉じ加減で形も悪いので、そのまま通り過ぎた。
 この直後、「この先にキクザキイチゲが咲いていた」という下山者のが聞こえた。それなら見にいこうと、踵を変えて降ることにする。すると、案内された先には、先ほど、ミスミソウだと思ってやり過ごした花がそうだと分かる。だが、開いていないのでは仕方がないので、また、登り返すことになった。
 9合目を過ぎて、いよいよフクジュソウも花盛りになってくる。しかし、私の足のほうは思うように動かなくなり、花などどうでもよくなり、必死に動かぬ足に鞭打っていた。
 この急斜面は、いわば胸突き八丁という所で、このルートの最難関区間である。でも、ここの複数個所で過去にミノコバイモが咲いていたことがあり、本日も可能性はあるので、細心の注意を払って進んで行くが、そんなに上手いこと見付かるものでもなく、疲労だけが溜まっていった。
 それでも何とか、この難関を踏破、頂上台地に登り上がる。何と、そこには雪が多く残っていたのには驚きであった。そういえば、今年は3月に入ってから、この鈴鹿では何回も雪が降ったので、雪解けが遅れたようだ。
 ここから10合目避難小屋までは指呼の間である。14時33分、ここに到着する。この時間である。小屋前広場にも、小屋の中にも登山者は見当たらなかった。
 8合目から約1時間26分、登山口から約4時間もかかって、やっとのことで辿り着いた。
 でも、最後の大仕事が待っているので、ノンビリとはしておりない。
 早速、ミノコバイモとキクザキイチゲの探索を始めた。
 ミノコバイモは、こやからそれほど離れていない場所だということだったので、思い付くままに丁寧に探すが、この広い原っぱ状の所で10㎝にも満たない草花を探そうとするのが、そもそも無理な相談である。結局、何も得られないままに終わる。
 これがダメでもキクザキイチゲがある。この花は、以前、何回も見ており、今年もそこへ行けば簡単に見付かるだろうと安易に考えていた。しかし、いつもならそれほど労せずに見付かるはずの花は、今年に限って咲いてはいなかった。
 それなら、先ほどであった登山者の見たという青色のキクザキイチゲを探すしか他に有効な手立ては持ち合わせていない。彼の言う、小屋の裏手の草原に立ってはみたが、そこはあまりにも広過ぎた。それでも探すだけである。あちらこちら歩き回ってみるが、やみ雲では徒労感を味わうだけに終わった。
 もう、そろそろ諦めようかと思った矢先、目の中へ白い花が飛び込んできた。「おっ、あれだ」と思って近付いてみると、はやり、求めていた花であった。
 早速、カメラのファインダーを覗き込んだのは言うまでもない。こうして姿勢を低くして視線を脇にやると、何と、そこにもあるではないか。こうして1つを見付けると、次々と見付かるのは何時ものことである。こうして、都合、7、8個は見付けてカメラに収め、上機嫌で小屋に戻る。
 そして、15時12分、充分な収穫に機嫌を良くして下山に取り掛かる。
 こうしてツイてくると、また、それがツキを呼ぶようである。
 下山時に出会った人からも耳寄りな話がもたらされる。それは、ミノコバイモの咲いていたという話である。これは場所も具体的で、帰り道でゲットすることができた。
 こうして気分は上々であったが、身体は正直であった。気持ちとは裏腹に足はガクガクで踏ん張りは利かず、転びそうになりながらも何とか持ち堪え、15時10分、転び込むように登山口に帰り着いた。
 こうして、登り4時間、降り2時間の往復6時間を要した藤原岳登山を終えた。
2017_04_14 キクザキイチゲ

木曽駒ヶ岳(乗越浄土まで) - 2016.10.21 Fri

 わが家のトイレの中のカレンダーは旅行会社のクラブツーリズムのカレンダーが掛かっている。この9、10月は、木曽駒ヶ岳は千畳敷の紅葉の写真である。
 今までは北海道の後始末に忙しく、これを見ても行きたいとは思わなかったが、ひと段落すると急に気になり始める。
 10月18日、天候が回復したので行ってみようかと思ったが、姫君に用事があったため、実行に移すには至らなかった。
 翌19日、朝、起きると雲が多く、あまり良い天気とはいえなかった。それでも朝食が終わった頃には雲も取れて青空が顔を覗かすようになった。
 このため、木曽駒ヶ岳のライブカメラを見てみると、青空が映っていたが、紅葉の状態は色がつぶれていて判然としなかった。
 それでも青空であることが分かると、急に行きたくなった。
 カメラを手に普段着のままで車に乗り込み、8時30分頃、自宅を出発する。
 何時もなら、国道19号を走るのだが、これから一般道を走っていては間に合わないので、小牧ICから東名高速道に乗り、小牧JCTから中央自動車道に乗り移り、一路、駒ヶ根ICを目指す。
 概ね2時間ほどで駒ヶ根に到着する。菅の台バスセンターの辺りにコンビニくらいはあるだろうと、直接、ここに行くが、生憎、この道筋にはコンビニはなかった。仕方がないので町のほうへ戻ると、セブンイレブンがあったので、ここで昼食の弁当を買って、再び、バスセンターへ戻る。
 ここの駐車場は、ほぼ満車に近い状態で、私の車は最奥のスペースに駐車することになった。普段なら文句の一つも口を突いて出るだろうが、これだけの人出が平日の本日にあるということは、千畳敷の紅葉が期待できると、むしろ喜んでいた。
 バスは30分間隔に出ているが、乗客数によって臨時バスも運行しているようで、私たちは臨時の11時30分発のバスに乗る。このバスは、始発のここでほぼ満員で、次の黒川平から乗った人の一部は補助席を使用した。
 ここからロープウェイ乗場のしらびそ平まで、およそ30分を擁す。この間、曲がりくねった1車線道路を走っていくが、この道をよくも運転できるものと感心するのは何時ものとおり、また、この道にはいろいろと思い出もあるので、それらを懐かしく思い起こしていると30分はあっという間に経過、しらびそ平に着いていた。
 ここからはロープウェイだが、これも10分くらい待つと乗ることができ、10分くらいで千畳敷に到着した。なお、ここの標高であるが、駅舎には2612mと書いてあるが、地形図から読み取ると2640mはある。この差異の原因が何処にあるのかは分からない。
 駅舎を出ると、千畳敷カールが一望できるが、これを見た途端、2人とも異口同音に「なんだ!」と落胆の言葉を発していた。
 それもそのはず、紅葉などは何処にもない。ただ、茶色の世界が広がっているだけだった。出がけに見たライブカメラの色はつぶれていたわけではなく、ある程度、忠実に写していたことが理解できた。
 さて、どうするかである。これでは写真を撮るといっても、撮る所がない。それならば、帰るかといっても、折角、ここまで来たので、直ぐに帰ってはモッタイナイといわざるを得ない。
木曽駒ヶ岳B
 考えた結果、乗越浄土へ通じる登山道、八丁坂を登ってみるということを姫君に提案してみる。
 姫君は、昨年、大手術を受けており、その後遺症とでもいうのだろうか、激しい運動はできないようになっている。このため、彼女自身は登山は完全に諦めているが、私は諦めなくてもよいと考えている。身体に負担がかからない程度にユックリと登っていけば大丈夫だと思っている。
 これで彼女の返事がどうであるか、暫くの間、待ってみる。すると、「行けるだろうか」というのが彼女の第一声であった。やはり、この景色を直に目にすれば、実績があるだけに血が騒ぐのだろう。家にいては考えられない前向きな考え方になったようだ。
 私は、休みを多く取り入れて息の上がらないようにユックリ歩いていけば大丈夫だと思っているので、その旨を告げる。すると、「行ってみようか」に変わってきた。「無理なら、そこから帰ってくればいいから……」と私が応じ、歩き始める。
 この千畳敷には、駅舎を中心にグルッと一回りする遊歩道が付けられている。この1周が概ね1kmである。
 この途中、標高2650mの辺りに登山道分岐があり、これを左手に進むと、これが八丁坂と呼ばれる急勾配の登山道が造られている。
 この道を登り上がった所が、乗越浄土と呼ばれる稜線上で、ここの標高は2850mである。したがって、この区間の標高差は200mである。ちなみに、この間の水平距離は800m余であることから、この斜度は25%ということになる。
 こんな経緯があって、駅舎前を歩き始めたのが12時25分頃。
 最初のうちは、遊歩道をいったん降り、次に緩やかに登っていく。この辺りは街歩きの靴でも歩くことができるような道なので、ノープロブレムである。
 問題は、登山道に入ってからである。目指す乗越浄土は見上げると遥か上のほうで、誰が見ても『これだけ登るのか』と嘆息するだろう厳しさである。
 かくいう私としても、山に登ったのは6月の八ヶ岳以来である。人の心配をするより、自分の心配をしなくてはならない。このため、何時も以上にユックリと歩いていく。
 ここは斜度25%というものの、ほぼ一定の角度を保つように登山道はジグザグに造られているので、ユックリと歩くぶんには見た目以上に楽に歩くことができる。それでも、姫君は肺活量が少なくなっているので、少し歩くと息遣いが荒くなる。「休もうか」と声をかけるが、「まだ、大丈夫」と思った以上に頑張りがきく。
 こんな状態だったので、途中で呼吸を整える短時間の休憩を3、4回しただけで、13時35分頃、乗越浄土まで辿り着いた。
 ここは、宝剣岳と伊那前岳を結ぶ稜線上の鞍部ということで、『乗越』の名前が付いている。だが、中央アルプスの主稜線は、宝剣岳、宝剣山荘、中岳を結ぶ稜線で、こことはほんの少しだがずれている。
 目の前に宝剣山荘と天狗荘という2つの山小屋、その奥には中岳が手の届くように見えている。これを見て、姫君が「中岳まで行こうか」という。ここまで登り上がって、いっぺんに自信が付いたようだ。
 でも、ここまで登られるようになっただけで充分である。来年への道が開けてきたからだ。
 ここで遅がけの昼食を摂り、14時頃、下山を始めた。
 帰りは遊歩道の反対側を通り、14時50分頃、ロープウェイの乗場へ返ってきた。
 帰りのロープウェイを待つ間、駅員から聞いた話では、今年の紅葉の期間は短く、10月5日には終わっていたとのことだった。
 このように紅葉には間に合わなかったが、姫君の復帰のめどがついたことは紅葉の空振りを補って余りあるもので、本日の収穫は充分過ぎるものがあったといえる。
木曽駒6505

硫黄岳・横岳(いおうだけ・よこだけ) - 2016.06.11 Sat

年寄りの冷や水
 毎年、6月の第1日曜日に八ヶ岳の開山祭が行われる。ただし、今年はどういう理由かは不詳だが、6月2日に行われたとのことだが……。
 この頃、この山域に咲く特別の花がある。ツクモグサとホテイランである。
 この花を観賞するため、この頃になるとここへ出かけることが多い。ただし、ホテイランは比較的に低い場所に咲くので毎年のように見られるが、ツクモグサの咲く場所は稜線上であるので、それなりの気構えがないと見ることはかなわない。こんな事情があって、ツクモグサを見たのは随分と昔のことになってしまった。
 先日、ツクモグサの写真が欲しくて過去に移したものを調べたところ、最終が2009年のものしか見付からなかった。2010年にも写しているはずであるが、これが見付からない。
 2010年のものは1眼レフカメラで写しているので、これが欲しい所だが、バカチョンカメラで撮った09年のものしかなかった。考えられるのは、パソコンを修理に出したとき、外付けのハードディスクにバックアップを取ったが、修理から帰ってきたパソコン本体に戻さずにいたら、外付けのハードディスクが壊れてしまい、画像の一部を喪失してしまったことがある。このときになくなったものだと思われる。
 こうなると、失った画像が惜しくてたまらなくなり、今年、このシーズンに再撮影に訪れたいと痛切に思うようになった。今年を逃すと、身体の衰えもあるので2度とはチャンスはないと考えられる。
 ツクモグサが咲く場所は横岳である。
 これまで撮影のために、ここを訪れた際には、何れも桜平からオーレン小屋経由で夏沢峠に登り、ここから硫黄岳、横岳を縦走、復路は同じ道を引き返すか、峰ノ松目を経由してオーレン小屋に至るという変わり映えのしないルートである。
 しかし、これだと何とももったいないところがある。往路は最短でよいとしても、復路は横岳を抜けきって地蔵ノ頭から行者小屋経由で南沢から美濃戸へ降りたほうが理想的だ。
 だが、これを阻むのが、桜平と美濃戸もしくは美濃戸口との距離である。車2台で試みるか、タクシーでも使わないことには、これは無理である。このため、心ならずも桜平から横岳のピストンをしてきた。
 桜平から硫黄岳までのコースタイムは3時間、一方、美濃戸から硫黄岳までは4時間で、その差は1時間だ。でも、この差は復路のことを考慮すると充分に吸収は可能だと思われる。
 このため、今般は次のルートで行くことにした。
 すなわち、美濃戸~(北沢)~赤岳鉱泉~赤岩ノ頭~硫黄岳~(硫黄岳山荘)~横岳~地蔵ノ頭(赤岳天望荘)~行者小屋~(南沢)~美濃戸というものだ。
 もちろん、この距離を今の私が日帰りでこなすのは無理だと考えられるが、硫黄岳山荘、赤岳天望荘、行者小屋と泊まる場所には事欠かないので、そのときの体調で臨機応変に対処すればよい。
 本当は6月2日、3日にすればよかったが、これを逃してしまった。3日を境に芳しい天気ではなくなってきた。梅雨が差し迫っているのでいたしかたないが、何とか2日間の好天が欲しい。
 4日と5日の午前中は雨模様だが、6日は晴れのち曇りであった。ちなみに、7日も雨との芳しからざる予報である。
 5日、午後からは予報通りに天気は回復、青空が顔を覗かせるようになった。こうなると、居ても立ってもおられなくなり、強引に姫君の了解を取り付け、6日のワンチャンスに賭けることにした。
 こういうと、もう少し天気と相談しながら行けばよいという声が聞こえそうだが、花には花期というものがあるので、天気の都合だけに合わせて悠長に構えてはおれないという事情があるのだ。
 必要な荷物を車に積み込み、15時30分頃、自宅を出発する。
 途中、スーパーとガソリンスタンドに立ち寄り、2日分の山での食料とガソリンを満タンにして東名高速道の春日井インターチェンジ(IC)へ急ぐ。
 日曜日で道が混んでいたのでいつもより時間がかかったが、16時35分に春日井ICから東名高速道に乗り、直ぐに中央自動車道に乗り移る。あとは一直線、2時間ほどで諏訪湖サービスエリア(SA)に到着する。
 この日は、ここで泊まって、翌朝、登山口の美濃戸へ向かうことにする。
 食事を済ませて眠るが、なかなか寝つかれない。そのうちにウトウトッとするが、直ぐに目が覚めてしまう。何時もいるはずの姫君がいないためか、それとも明日のことが気になるのかは分からないが、こんなことを繰り返しているうちに何時しか朝を迎えてしまう。
八ヶ岳地形図・正 500×411
 6日、4時過ぎに目覚めると既に薄明るくなっていた。予報のとおり、天気は良いようだが、それを占うには充分なほどの明るさではない。
 何れにしても、便所に行っただけで直ぐに出発する。
 南諏訪ICで自動車道を降りると、ズームラインという名前の付いた県道が八ヶ岳へ向かって一直線に続いているので、これを走っていけばよい。この道路の愛称は、カメラのズームレンズを覗いたときのように、この道路を走るに伴い八ヶ岳が大きくなって迫ってくるといういみで名付けられたということが走っていくと実感できる。ちなみに、最近は高速道路を使うことはないので、この道を走ることはない。このため、この感触を味わったのは久しぶりのことで、当たり前のように走っていた当時が懐かしく思い出された。
 美濃戸口にやってきた。最近では、この美濃戸口の駐車場に車を駐車して、美濃戸までは歩くことが多いが、本日は時間の稼げる最奥の美濃戸まで車を乗り入れる予定だったので、迷わずにここを素通りして林道へと車を乗り入れる。
 美濃戸口に車を駐車させて美濃戸まで林道を歩くのは、駐車料金の問題もさることながら、この区間の道路面が悪いことが一番の原因である。また、これとは別に積雪時に四輪駆動(4WD)の車の前輪だけにチェーンを巻いて走ったところ、制御不能に陥って怖い思いをしたこともトラウマとなっている。
 この林道は未舗装が原則だが、急カーブの所だけはスリップ防止のために部分的にコンクリート舗装が施されている。しかし、工事後、長年にわたって放置されているため、大半の箇所のコンクリートが粉々に割れていて、未舗装の穴ぼこ以上に始末が悪い。地道の部分は山開きに際して手が入ったようで、思っていた以上に凸凹は少なかった。とはいえ、セカンドギア―や、ときにはローギアーを使い分けてノロノロ運転で美濃戸まで走ることになった。
 美濃戸には3軒の山小屋がある。1番手前にあるのが『やまのこ村』、次が『赤岳山荘』、最奥が『美濃戸山荘』である。美濃戸山荘の駐車場は宿泊者のみであり、私たちが停められるのは、2つだけである。このうち、歩く距離が少なくて済むのは赤岳山荘であるので、専ら停めるときは必然的にここになる。
 やまのこ村を通り過ぎて赤岳山荘にやってくると、売店の中から女性が出てきて私の車を停めて駐車料金を請求する。1日が1000円、以前と変わりない料金だった。ちなみに、美濃戸口の駐車料金は500円である。
 料金を支払うと、「車が大きいから道路側の駐車場を使用してください」と駐車場所を指定される。少し先へ進むと、囲いの中とは別に道路脇に10台ほどが停められるように地面にロープを張って区分けがしてあった。まだ、時間が早いためか、ここには1台の車も停まっていなかったが、囲いの中には5、6台が駐車してあった。これらは上で泊まっている登山者の物だと分かるが、山開き直後にしてはやや寂しい感じがした。
 このとき、時刻は5時を少し回ったばかりで、まだ食欲はなかったので、食事は次の赤岳鉱泉で摂ることにして、荷物の整理と身支度のみを行う。
 上半身は半袖のTシャツの上に薄手のスポーツシャツ、下はジーパン。最近、ゴム長靴を止めて登山靴を履くようになっているが、これと共に靴擦れに悩まされるようになっている。このため、本日はニッカホースの毛糸の靴下を持ってきたので、これに登山靴を履いた。
 こうして身支度を整えて車の外に出ると、少し肌寒い。カッパの上を羽織ることも頭をかすめたが、少し歩けば暖かくなることは分かっているので、最初のうちだけは多少の寒さを辛抱することにする。
 5時29分、赤岳山荘の駐車場を後にして、最初の目的地の赤岳鉱泉へ向かって歩き始める。
 道は、これまで走ってきた林道の延長である。直ぐに木橋が架かっていて、ここにロープを張って車両を通行止めしてある。このロープの脇に人、1人が通られるだけの余裕が設けてあるので、ここをすり抜けて橋を渡る。道は登り勾配で、歩き始め早々では些か身体に堪えるが仕方がないので、そのまま登り上がっていく。
 歩き始めてから5分くらいすると、美濃戸山荘の前にやってきた。
 ここが登山口である。八ヶ岳の代表的な山、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳などの西側から代表的な登山口であり、美濃戸山荘の名前は一度でも八ヶ岳へ登った経験のある人ならたいていの人が知っているといっても過言でないくらい有名である。
 とはいっても、山小屋である。建物自体は貧弱なものだし、今は早朝ということもあってひっそり閑と静まり返っていた。
 美濃戸山荘は、2つの登山ルートの登山口となっている。1つは南沢沿いを登る南沢登山口、もう1つはこれから私が登ろうとする北沢登山口だ。
 前者はここから直ぐに登山道となるが、後者はここから暫くは歩いてきた林道の延長をそのまま歩いて行く。私たちは、圧倒的に南沢登山道を使用することが多いが、全体的には北沢登山道が多く用いられることもあって、ここは単なる林道の途中であって登山口という雰囲気に欠けるところがある。
 美濃戸山荘を道なりに左折してそのまま歩いていく。前述のように、北沢ルートはあまり歩いたことはないので、記憶はおぼろであるが、何時かの帰り道でもういい加減に着かないかと思ったほどに長かったような記憶があるので心して歩いたが、記憶ほどではなく、1時間弱で倉庫3棟が見えたと思ったら、北沢へ降り立ち、ここで林道は終わっていた。ちなみに、この倉庫は赤岳鉱泉の所有物らしく、この前には車3台も駐車してあった。
 この林道終点で車道は終わる。ここから直ぐに北沢を渡って、この沢の左岸に渡り、ここから登山道が始まる。登山道といっても道幅は広く、手入れの行きとどいた歩き易い道で、南沢の道とは雲泥の差といってもいいくらいであった。また、沢道特有の徒渉も数回あるが、何れも立派な橋が架けられていて、徒渉場所に神経を使う必要はなく、この面でも気配り十分といえる。
 赤岳に登る人の中でも、北沢経由で赤岳鉱泉に行き、ここから行者小屋経由で登る人も多いのを、これまでは『どうしてであろうか?』と不思議に思っていたが、こうしてここを歩いてみて、この歩き易い道のせいだと自然に答えを出すことができ、これまでの疑問が一気に解消された。
 この道を歩いていると、キバナノコマノツメが多く咲いているのが目に付いた。これまでの林道では、精々、シロバナヘビイチゴが咲いていたくらいであったことから撮影意欲を刺激されたが゛、まだ、先の長い道中を始めたばかりということが頭にこべり付いているだけに、ジックリと三脚を立てて取る気分にはならず、取り敢えずカメラに収めるだけにして先を急ぐ。ちなみに、本日、持参のカメラは1台のみで、ズームレンズとマクロレンズを持ってきており、必要に応じてレンズ交換する予定であった。レンズ交換をする手間は、結構、面倒であり、マクロレンズを使うのは本命のツクモグサを撮るときだけにするつもりで、道中の花は半ば諦めている。
 7時29分、赤岳鉱泉に到着する。
 駐車場を出発してからちょうど2時間で着いたことになるが、これはコースタイムと同じである。この間の距離は3.8㎞、標高差が530mというのに加えて都会の舗装道路に近いような良い道ということが味方してくれたことが大きく寄与して、このような結果が残せたようだ。
 この時間になると、何時も朝食を摂るので自然にそのモードになる。
 小屋前のテラスに置かれたテーブルを借りて、用意してきた稲荷寿司を食べ、朝食代わりにする。ちなみに、これ以後の食事は総てオニギリである。昔は色々と考えたが、最近は2日や3日は食べなくとも死ぬわけではないので、必要最低限のもの、オニギリかパンを用意するだけになっている。
 7時40分、食事を終えてザックを担ぎ上げ、次の赤岩ノ頭へ向かって歩き始める。最初は小屋前のテラスを歩いて小屋の玄関に行くが、玄関ドアーは締まり、中から人の気配はまったく感じられず、前夜の宿泊客が少なかったことはいわずもがなである。
 小屋の玄関前から赤岩ノ頭へ通じる道が始まっている。段差の高い石段を「よっこいしょ」と2、3段登り上がると、岩混じりの道が樹林の中へと通じているのでこれを歩いていく。
 この道は2、3度は歩いたと思うが、詳しいことは記憶から欠落してしまっている。ただ1つ記憶に残っているのは、ある年の正月山行のそれだけだ。この道を歩いていくと、大同心、小同心という岩峰へ通じる沢があり、これを越えて進むと、今度はこれより大きなジョ―ゴ沢があり、これも横切って進んでいくのだが、真冬のことゆえ、これは雪に埋まっていて、足跡だけが先へと続いていた。この足跡を辿って進んでいくと、大きな段差(滝)があって先行者はザイルを出していた。これを見て初めて道を間違えたことに気付き、再び、元に戻って正しい道を探し出したということだけは何年かが経った今でもハッキリと記憶に残っている。
 こんなことを思い出しながら、ジョ―ゴ沢を越えるが、今は雪はないのでここでこの沢へ誘い込まれることは間違ってもない。
 また、この道は山腹のトラバース道だったように記憶していたが、本日、歩いてみると基本的には尾根道であったことに気付いた。ここは尾根道といっても、尾根を忠実に登り上がる道ではなく、勾配が急な所は上手いことジグザグに道が切られているので、概ね、安定した斜度を登っていくようになっている。このような山深い所に人間の生活の場があったとは考えられず、この道は杣人が造った生活の道ではないと理解されるが、登山道に往々にある力任せに強引に登り上がる道ではなく、登山者の身体に優しい道が上手く造られている。
 この道の斜度は27%(430/1570)で、登山口から赤岳鉱泉までの道の斜度14%(530/3820)に比べると格段に厳しい道ではあるが、そのことを感じさせないのは、この構造のせいだと、こうしてレポートを書いていて理解できた。
 とはいえ、身体は厳しい道だということを次第に理解するようになり、頭とは別にぐずり出した。そうなると、右手が比較的に開け、回りがモミかシラビソの樹林という景色にならないかと、頭の中の景色と現実のそれが合致しないかと思うようになる。赤岩ノ頭の手前は、こんな景色だったという記憶があるからだ。何故、これを記憶しているかというと、ここでモミだかシラビソだかに積もった雪が目の前でドサッと落ちてきたのが新鮮な記憶として残っているからだ。
 こんな記憶の場面に似た場所にやってきた。『もう直ぐそこだ』と思うと、精神的に余裕が出てきたのか、道の脇にヒメイチゲが咲いているのを見付けた。ここに来るまでに見た花は、レイジンソウを極小にしたような名前の分からないものだけだったので、早速、撮影に取り掛かる。とはいっても、三脚を立てることなく、また、レンズも18~200mmのズームレンズで撮るのであるから、出来映えの保障は定かではないものだが……。また、この近くにわが三太夫家の家紋でもあるコミヤマカタバミも見付かった。この花は、なかなか綺麗に花を広げたものにお目にかかれないが、ここでは開いていた。それだけ、本日の天気が良いことを物語っていることに気付き、思わず見上げると、樹林の先には綺麗に晴れ上がった青空が見えていた。
 この先、進行方向の左手、南のほうの樹木が途切れて先のほうまで見渡せていた。そこには主峰の赤岳が、これと並ぶ阿弥陀岳、手法を守るがごとく横岳が、赤岳と阿弥陀を繋ぐ中岳、その奥には権現岳までが見て取ることができた。
 こんな景色が続き、そして向きを変えると赤岩ノ頭の三叉路があった。
0 1321-チョウノスケソウ
 赤岩ノ頭に到着したとき、9時31分。赤岳鉱泉から2時間を要した勘定になる。ここのコースタイムは1時間20分で、私は40分オーバーしたことになり、やはりこの道は見た目ほど簡単ではなかったことを如実に物語っている。
 ここには夫婦とおぼしき2人連れが休んでいた。私も彼らに倣おうと思い、ザックの肩紐を外そうとしたとき、腰にキヤッとした痛みが走った。これまで、腰に疲れが溜まることはあっても痛めたことはなかったので、この痛みは初めての経験であった。少し休んでおれば治るかもしれないと思い、ザックからお茶を取り出して飲み、しばしの休憩をとる。
 5分ほどだろうか、10分も休んだだろうか。そろそろ行かなければと思い、ザックの肩紐に腕を通して担ぎ上げようとすると先ほどに増しての痛みが走る。『困ったことになった。歩けるだろうか』と心配になったが、そのまま2、3回、足踏みしてみると、歩けないことはないので歩き始めた。
 この先の硫黄岳は、ここから見えている。とはいうものの、結構な登りをこなさねばならない。私の記憶では緩やかに登り上がるというものだが、ここから見るかぎりではそんな生易しいものではないようであり、気を引き締めて歩き始める。
 実際に歩き始めれば、距離も短いものであることもあって、それほどでもなかった。先ほどの正月に登ったときには、赤岩ノ頭に登り上がると猛烈な吹雪で、眼鏡を外して登ったので、登る大変さより吹雪の大変さのほうが勝り、チョコチョコッと登ったような印象が残ったと思われる。
 また、頂上直下では岩場を避けて右手から巻いて登ったが、右手が切れ落ちた箇所があって、ここを左ピッケルで通過する自信がなく、ここを通らずに左手の岩場をよじ登ったが、今はそんななことはせずとも、道に従っていけばよい。
 10時10分、硫黄岳頂上に到着する。
 ここの頂上はだだっ広い。三角点は噴火口脇に埋められているらしいが、この周りにはロープを張り巡らせて立ち入ることを禁止している。その代わりに、頂上広場には幾つものケルンが立てられていて、これらを頂上と見做している。このケルンのうち、大きそうに見えるものが経つ場所を頂上と見做して証拠写真を撮る。また、ロープ内で近付けるだけ、近付いて爆裂火口の写真を撮るが、ロープの制限があって生々しいものを撮ることはできなかった。
 こここから下山していくと鞍部に硫黄岳山荘があり、この辺りを大ダルミと呼ぶ。
 この辺りで、以前、ウルップソウを見たことがあるので、今年も咲いていないかと注意して歩くが、まだ早いのか、見付けることが下手だったかは不詳ながら、この花を見ることはかなわなかった。
 大ダルミを過ぎると、横岳の登りに入る。
 大ダルミの標高が2650mで、横岳(奥ノ院)頂上が2830mであるから、数字上では180mに過ぎないが、これがなかなかの曲者で、一気に登り上がることはできずに、途中でオニギリ1個を食べる食事休憩を採ったほどだった。
 この頂上の手前にツクモグサが咲く場所があり、ここでいい写真が撮れれば、先へ進む必要はないので引き返すことも選択肢の1つ入っていたが、アテにしていた場所に目指す花は咲いてはおらず、こうなると横岳を通過せざるを得なくなる。
 横岳という山は、岩峰が固まっているものの総称である。硫黄岳のほう、すなわち北側からいうと、台座の頭で始まり、大同心、小同心、奥ノ院、三叉峰、石尊峰、鉾岳、日ノ岳、二十三夜峰と続き、地蔵ノ頭で終っている。これでも分かるように横岳という峰はないが、これらの峰々の内、最高峰である標高2829mの奥ノ院を、通常、横岳の頂上と称している。
 なお、この内で大同心、小同心は主稜線から西側に離れて張り出した岩峰で、直接に着通過することはないが、これは岩登りに最適なことから、この手の同好者には馴染みがあり、その名前も一般にも浸透している。その他、奥ノ院の他では、杣添尾根と主稜線の交点にある三叉峰が登山者が口にすることはあるが、その他の峰は巻いて通り過ぎるので殆ど名前は知られていない。
 以上でも分かるように横岳を通り過ぎるには、これらの岩峰を乗り越していくなり、直下を巻いていかなければならず、この間は岩登り、もしくは岩場の歩きを強いられる。危険な所には梯子なり、鎖なりの補助具が取り付けられているので、私のような岩登りの素人でも無難に通過できるようになってはいる。
 しかし、最近の私は脚力が衰えているのに加えてバランスもとるのも下手になっているので、従前に比べるとこういう場所の通過は負担を感じるようになっている。このため、取り付けられた補助具に100%頼っての通過を余儀なくされ、時間も普通の人の倍もかかる始末であった。特に、奥ノ院(横岳頂上)への登り、日ノ岳から二十三夜峰への降りには苦労した。
 さて、今般の最大の目的であるツクモグサは、三叉峰を過ぎた辺りからボツボツと現れるが、この頃には今朝がたにはあれだけ良かった天気も、お昼ごろから下り坂に入り、雲が出て太陽を隠すようになっていた。
 ツクモグサは日の光に敏感な花で、曇りの際には花びらを閉じ加減にして、パッと開くのは太陽の光を気持ちよく浴びるときに限られているようで、今のような雲が多くては花を見る前から望み薄であった。また、半開きの花を見ると、花弁の外側に毛は生えておらず、花自体が終盤を迎えていることが分かる。八ヶ岳も、鈴鹿と同様に今冬は雪が少なく、花の咲く時期が早まったようである。
 こうして、ツクモグサへの期待は急速にすぼまったが、もう一つ、光明があった。
それは、横岳を登っている際、出会った登山者からもたらされた。その朗報とは、三叉峰の先でウルップソウが1つだけだが咲いていたというものだった。この登山者は、このときに撮ったスマホの写真も見せてくれたので、間違いはない、信用できる話であった。
これを楽しみに、苦しく怖い岩場の通過をこなしてきた。三叉路を通過してからは、全神経を登山道に注ぎ、『見落とすまい』と必死になるが、なかなか現れてはくれなかった。三叉路からだいぶ過ぎた所で、ザックを降ろしてカメラだけを持って戻ることにした。こうして三叉路まで1往復したが、無情にも見付けることはかなわなかった。
 ウルップソウも空振り、ツクモグサも期待薄というのでは、ここまできた意味はない。その他の珍しい花というと、チョウノスケソウをゲットできたが、ツクモグサへの期待が高かっただけに、これで補って帳消しとはいかなかった。
 最後のチャンスである日ノ岳までやってきた。ここには多くのツクモグサがあったが、何れもが花を閉じたものばかりだった。これはある程度は予想していたことであり、落胆はなかった。というより、ここに来るまでに充分に落胆していたので、ショックは少なかったというだけの話だ。
 明7日の天気が良ければ、このあと、赤岳天望荘で泊まるという手もあるが、生憎、明日は雨が予想されている。このため、降りられれば、本日中に美濃戸まで帰りたい。
 そこで、出発してからここまでずっと抱えてきたカメラをザックに仕舞い、この先、歩くことに専念する体制を整え、地蔵ノ頭へ向かう。
 13時45分、地蔵ノ頭に到着する。ここで横岳への登りの食事休憩の続きで残りのオニギリを食べ、小休止を兼ねる。
 硫黄岳からここまで稜線の縦走に3時間35分を要している。コースタイムは2時間10分であるので、如何に足の弱った私としても、この差は大き過ぎる。岩場を越すのに如何にてこずったかの証明でもある。
 腰のほうは相変わらずの状態である。身体を強くひねったりすると飛び上るほどの痛みを感じるが、普通に歩いている分には痛みはない。でも、腰全体が何か他人のもののような感じで、こんな経験は今までに味わったことはない。この状態で、美濃戸までもつかという不安がないといえば嘘になるが、1晩、泊まって治る保証もない。こういう場合は、多少、無理をしても降りたほうが賢明のように思える。この判断が正しいか、否かは判らないかが、安全圏の街中へ身を置きたい。
 このため、早々に休憩を切り上げて、地蔵尾根を降り始める。
 この尾根は、これまでに何回も降りているが、急降下続きで下手すれば危険に陥る可能性が高い。普通、登山道は時の経過とともに安定してくるが、ここの場合はこれがあてはまらない。何時、降っても急場に造られた登山道という感じが変わらない。別に、壊れて道が付け変えられている訳ではないので余計に不思議な感じを抱く。
 それでも工事用の足場用の階段などを多用し、涙ぐるしいくらいに手は入っているが、抜本的な対策が取られていないためか、安定感に欠ける道である。
 こんな道である。足でも踏み外したら大ごとになるので、手摺があれば必ず掴み、一歩、一歩、足元を確認しながら慎重に降りる。それでも、降りは、降りで、登りに比べれば格段に速い。14時45分には行者小屋に到着した。
 ここは小屋の前の広場がテント場になっていて、これまでなら色とりどりのテントが張られているのだが、本日は様子が違っていた。この広いテント場に1張りのテントも見られなかった。ちなみに、今朝ほどの赤岳鉱泉のテント場には2、3張りのテントがあり、このときは少ないとの感じを抱いたが、行者小屋ではここより悪かった。
 ここの小屋に立ち寄った。確認したいことがあったためだ。
 ここから美濃戸へ帰るには、このまま真っ直ぐに南沢を降っていくという方法と、いったん、赤岳鉱泉に出て今朝ほど通ってきた北沢を降るというものだ。
 普通なら、文句なく南沢ルートを採る。だが、15時近くでは要する時間によっては途中で暗くなることが考えられる。北沢ルートなら、最後の1時間は林道歩きであるため、暗くなっても構わないという事情がある。
 どちらのルートを採るかということを考える上で、行者小屋と赤岳鉱泉の間に要する時間が知りたかったためである。
 小屋の従業員に、「赤岳鉱泉までどれくらいかかりますか」との問いに対して、「1時間くらい……」との返事だった。では、南沢を降った場合、美濃戸までどれくらいかかるかと訊くと3時間という返事だった。ということは、どちらでも同じだということになる。18時着なら暗くはならないであろうが、途中、アクシデントが発生すればと考えると、北沢へ回ったほうが得策かとも思えてくる。
 だが、従業員は美濃戸までなら南沢を降りたほうが早いというので、彼の言葉を信じることにして、南沢ルートで帰ることにした。
 このルートは、同じ沢沿いとはいえ北沢のそれに比べると沢を歩く距離が長く、徒渉箇所も分かり難い所があって私向きではないが、これまで何回も通っている道でもあり、無難に歩くことができた。
 なお、道の途中で一部が壊れたためか、付け変えられた部分があったが、ここは誘導ロープが張り巡らしてあり、間違えようにも間違えようがないようになっていた。
 歩いていると、徐々に思い出されてくる。小屋で聞いた時間より早く着くことが分かって喜んだ。
 このルートではホテイランが自生しているので、今朝ほどは帰りに撮影するつもりであったが、今となってはどちらでもよくなっていた。でも、目の前に花が現れると、黙って通り過ぎるのが悪いような気がしてきて、結局、ザックを降ろすことになった。ただし、三脚は立てず、レンズも取り替えずというのは今朝ほどと同じであった。
 16時52分、美濃戸山荘まで戻ってきた。腰も何とか持ち堪えた。
 今回のルートをコースタイムで歩いたとすると、1周するのに8時間10分を要する。これにたいとて、私の場合は11時間18分もかかったことになり、如何にヨロヨロと歩いたかが分かる。しかし、私自身としては、腰を痛めたとはいえ、11時間も歩き通すことができたということは信じ難い事実でもあり、ある種の満足感を抱いた。でも、傍から見れば年寄りの冷や水以外何物でもなかろうとの反省もある。
0 DSC_1322赤岳

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