硫黄岳・横岳(いおうだけ・よこだけ) - 2016.06.11 Sat
年寄りの冷や水
毎年、6月の第1日曜日に八ヶ岳の開山祭が行われる。ただし、今年はどういう理由かは不詳だが、6月2日に行われたとのことだが……。
この頃、この山域に咲く特別の花がある。ツクモグサとホテイランである。
この花を観賞するため、この頃になるとここへ出かけることが多い。ただし、ホテイランは比較的に低い場所に咲くので毎年のように見られるが、ツクモグサの咲く場所は稜線上であるので、それなりの気構えがないと見ることはかなわない。こんな事情があって、ツクモグサを見たのは随分と昔のことになってしまった。
先日、ツクモグサの写真が欲しくて過去に移したものを調べたところ、最終が2009年のものしか見付からなかった。2010年にも写しているはずであるが、これが見付からない。
2010年のものは1眼レフカメラで写しているので、これが欲しい所だが、バカチョンカメラで撮った09年のものしかなかった。考えられるのは、パソコンを修理に出したとき、外付けのハードディスクにバックアップを取ったが、修理から帰ってきたパソコン本体に戻さずにいたら、外付けのハードディスクが壊れてしまい、画像の一部を喪失してしまったことがある。このときになくなったものだと思われる。
こうなると、失った画像が惜しくてたまらなくなり、今年、このシーズンに再撮影に訪れたいと痛切に思うようになった。今年を逃すと、身体の衰えもあるので2度とはチャンスはないと考えられる。
ツクモグサが咲く場所は横岳である。
これまで撮影のために、ここを訪れた際には、何れも桜平からオーレン小屋経由で夏沢峠に登り、ここから硫黄岳、横岳を縦走、復路は同じ道を引き返すか、峰ノ松目を経由してオーレン小屋に至るという変わり映えのしないルートである。
しかし、これだと何とももったいないところがある。往路は最短でよいとしても、復路は横岳を抜けきって地蔵ノ頭から行者小屋経由で南沢から美濃戸へ降りたほうが理想的だ。
だが、これを阻むのが、桜平と美濃戸もしくは美濃戸口との距離である。車2台で試みるか、タクシーでも使わないことには、これは無理である。このため、心ならずも桜平から横岳のピストンをしてきた。
桜平から硫黄岳までのコースタイムは3時間、一方、美濃戸から硫黄岳までは4時間で、その差は1時間だ。でも、この差は復路のことを考慮すると充分に吸収は可能だと思われる。
このため、今般は次のルートで行くことにした。
すなわち、美濃戸~(北沢)~赤岳鉱泉~赤岩ノ頭~硫黄岳~(硫黄岳山荘)~横岳~地蔵ノ頭(赤岳天望荘)~行者小屋~(南沢)~美濃戸というものだ。
もちろん、この距離を今の私が日帰りでこなすのは無理だと考えられるが、硫黄岳山荘、赤岳天望荘、行者小屋と泊まる場所には事欠かないので、そのときの体調で臨機応変に対処すればよい。
本当は6月2日、3日にすればよかったが、これを逃してしまった。3日を境に芳しい天気ではなくなってきた。梅雨が差し迫っているのでいたしかたないが、何とか2日間の好天が欲しい。
4日と5日の午前中は雨模様だが、6日は晴れのち曇りであった。ちなみに、7日も雨との芳しからざる予報である。
5日、午後からは予報通りに天気は回復、青空が顔を覗かせるようになった。こうなると、居ても立ってもおられなくなり、強引に姫君の了解を取り付け、6日のワンチャンスに賭けることにした。
こういうと、もう少し天気と相談しながら行けばよいという声が聞こえそうだが、花には花期というものがあるので、天気の都合だけに合わせて悠長に構えてはおれないという事情があるのだ。
必要な荷物を車に積み込み、15時30分頃、自宅を出発する。
途中、スーパーとガソリンスタンドに立ち寄り、2日分の山での食料とガソリンを満タンにして東名高速道の春日井インターチェンジ(IC)へ急ぐ。
日曜日で道が混んでいたのでいつもより時間がかかったが、16時35分に春日井ICから東名高速道に乗り、直ぐに中央自動車道に乗り移る。あとは一直線、2時間ほどで諏訪湖サービスエリア(SA)に到着する。
この日は、ここで泊まって、翌朝、登山口の美濃戸へ向かうことにする。
食事を済ませて眠るが、なかなか寝つかれない。そのうちにウトウトッとするが、直ぐに目が覚めてしまう。何時もいるはずの姫君がいないためか、それとも明日のことが気になるのかは分からないが、こんなことを繰り返しているうちに何時しか朝を迎えてしまう。

6日、4時過ぎに目覚めると既に薄明るくなっていた。予報のとおり、天気は良いようだが、それを占うには充分なほどの明るさではない。
何れにしても、便所に行っただけで直ぐに出発する。
南諏訪ICで自動車道を降りると、ズームラインという名前の付いた県道が八ヶ岳へ向かって一直線に続いているので、これを走っていけばよい。この道路の愛称は、カメラのズームレンズを覗いたときのように、この道路を走るに伴い八ヶ岳が大きくなって迫ってくるといういみで名付けられたということが走っていくと実感できる。ちなみに、最近は高速道路を使うことはないので、この道を走ることはない。このため、この感触を味わったのは久しぶりのことで、当たり前のように走っていた当時が懐かしく思い出された。
美濃戸口にやってきた。最近では、この美濃戸口の駐車場に車を駐車して、美濃戸までは歩くことが多いが、本日は時間の稼げる最奥の美濃戸まで車を乗り入れる予定だったので、迷わずにここを素通りして林道へと車を乗り入れる。
美濃戸口に車を駐車させて美濃戸まで林道を歩くのは、駐車料金の問題もさることながら、この区間の道路面が悪いことが一番の原因である。また、これとは別に積雪時に四輪駆動(4WD)の車の前輪だけにチェーンを巻いて走ったところ、制御不能に陥って怖い思いをしたこともトラウマとなっている。
この林道は未舗装が原則だが、急カーブの所だけはスリップ防止のために部分的にコンクリート舗装が施されている。しかし、工事後、長年にわたって放置されているため、大半の箇所のコンクリートが粉々に割れていて、未舗装の穴ぼこ以上に始末が悪い。地道の部分は山開きに際して手が入ったようで、思っていた以上に凸凹は少なかった。とはいえ、セカンドギア―や、ときにはローギアーを使い分けてノロノロ運転で美濃戸まで走ることになった。
美濃戸には3軒の山小屋がある。1番手前にあるのが『やまのこ村』、次が『赤岳山荘』、最奥が『美濃戸山荘』である。美濃戸山荘の駐車場は宿泊者のみであり、私たちが停められるのは、2つだけである。このうち、歩く距離が少なくて済むのは赤岳山荘であるので、専ら停めるときは必然的にここになる。
やまのこ村を通り過ぎて赤岳山荘にやってくると、売店の中から女性が出てきて私の車を停めて駐車料金を請求する。1日が1000円、以前と変わりない料金だった。ちなみに、美濃戸口の駐車料金は500円である。
料金を支払うと、「車が大きいから道路側の駐車場を使用してください」と駐車場所を指定される。少し先へ進むと、囲いの中とは別に道路脇に10台ほどが停められるように地面にロープを張って区分けがしてあった。まだ、時間が早いためか、ここには1台の車も停まっていなかったが、囲いの中には5、6台が駐車してあった。これらは上で泊まっている登山者の物だと分かるが、山開き直後にしてはやや寂しい感じがした。
このとき、時刻は5時を少し回ったばかりで、まだ食欲はなかったので、食事は次の赤岳鉱泉で摂ることにして、荷物の整理と身支度のみを行う。
上半身は半袖のTシャツの上に薄手のスポーツシャツ、下はジーパン。最近、ゴム長靴を止めて登山靴を履くようになっているが、これと共に靴擦れに悩まされるようになっている。このため、本日はニッカホースの毛糸の靴下を持ってきたので、これに登山靴を履いた。
こうして身支度を整えて車の外に出ると、少し肌寒い。カッパの上を羽織ることも頭をかすめたが、少し歩けば暖かくなることは分かっているので、最初のうちだけは多少の寒さを辛抱することにする。
5時29分、赤岳山荘の駐車場を後にして、最初の目的地の赤岳鉱泉へ向かって歩き始める。
道は、これまで走ってきた林道の延長である。直ぐに木橋が架かっていて、ここにロープを張って車両を通行止めしてある。このロープの脇に人、1人が通られるだけの余裕が設けてあるので、ここをすり抜けて橋を渡る。道は登り勾配で、歩き始め早々では些か身体に堪えるが仕方がないので、そのまま登り上がっていく。
歩き始めてから5分くらいすると、美濃戸山荘の前にやってきた。
ここが登山口である。八ヶ岳の代表的な山、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳などの西側から代表的な登山口であり、美濃戸山荘の名前は一度でも八ヶ岳へ登った経験のある人ならたいていの人が知っているといっても過言でないくらい有名である。
とはいっても、山小屋である。建物自体は貧弱なものだし、今は早朝ということもあってひっそり閑と静まり返っていた。
美濃戸山荘は、2つの登山ルートの登山口となっている。1つは南沢沿いを登る南沢登山口、もう1つはこれから私が登ろうとする北沢登山口だ。
前者はここから直ぐに登山道となるが、後者はここから暫くは歩いてきた林道の延長をそのまま歩いて行く。私たちは、圧倒的に南沢登山道を使用することが多いが、全体的には北沢登山道が多く用いられることもあって、ここは単なる林道の途中であって登山口という雰囲気に欠けるところがある。
美濃戸山荘を道なりに左折してそのまま歩いていく。前述のように、北沢ルートはあまり歩いたことはないので、記憶はおぼろであるが、何時かの帰り道でもういい加減に着かないかと思ったほどに長かったような記憶があるので心して歩いたが、記憶ほどではなく、1時間弱で倉庫3棟が見えたと思ったら、北沢へ降り立ち、ここで林道は終わっていた。ちなみに、この倉庫は赤岳鉱泉の所有物らしく、この前には車3台も駐車してあった。
この林道終点で車道は終わる。ここから直ぐに北沢を渡って、この沢の左岸に渡り、ここから登山道が始まる。登山道といっても道幅は広く、手入れの行きとどいた歩き易い道で、南沢の道とは雲泥の差といってもいいくらいであった。また、沢道特有の徒渉も数回あるが、何れも立派な橋が架けられていて、徒渉場所に神経を使う必要はなく、この面でも気配り十分といえる。
赤岳に登る人の中でも、北沢経由で赤岳鉱泉に行き、ここから行者小屋経由で登る人も多いのを、これまでは『どうしてであろうか?』と不思議に思っていたが、こうしてここを歩いてみて、この歩き易い道のせいだと自然に答えを出すことができ、これまでの疑問が一気に解消された。
この道を歩いていると、キバナノコマノツメが多く咲いているのが目に付いた。これまでの林道では、精々、シロバナヘビイチゴが咲いていたくらいであったことから撮影意欲を刺激されたが゛、まだ、先の長い道中を始めたばかりということが頭にこべり付いているだけに、ジックリと三脚を立てて取る気分にはならず、取り敢えずカメラに収めるだけにして先を急ぐ。ちなみに、本日、持参のカメラは1台のみで、ズームレンズとマクロレンズを持ってきており、必要に応じてレンズ交換する予定であった。レンズ交換をする手間は、結構、面倒であり、マクロレンズを使うのは本命のツクモグサを撮るときだけにするつもりで、道中の花は半ば諦めている。
7時29分、赤岳鉱泉に到着する。
駐車場を出発してからちょうど2時間で着いたことになるが、これはコースタイムと同じである。この間の距離は3.8㎞、標高差が530mというのに加えて都会の舗装道路に近いような良い道ということが味方してくれたことが大きく寄与して、このような結果が残せたようだ。
この時間になると、何時も朝食を摂るので自然にそのモードになる。
小屋前のテラスに置かれたテーブルを借りて、用意してきた稲荷寿司を食べ、朝食代わりにする。ちなみに、これ以後の食事は総てオニギリである。昔は色々と考えたが、最近は2日や3日は食べなくとも死ぬわけではないので、必要最低限のもの、オニギリかパンを用意するだけになっている。
7時40分、食事を終えてザックを担ぎ上げ、次の赤岩ノ頭へ向かって歩き始める。最初は小屋前のテラスを歩いて小屋の玄関に行くが、玄関ドアーは締まり、中から人の気配はまったく感じられず、前夜の宿泊客が少なかったことはいわずもがなである。
小屋の玄関前から赤岩ノ頭へ通じる道が始まっている。段差の高い石段を「よっこいしょ」と2、3段登り上がると、岩混じりの道が樹林の中へと通じているのでこれを歩いていく。
この道は2、3度は歩いたと思うが、詳しいことは記憶から欠落してしまっている。ただ1つ記憶に残っているのは、ある年の正月山行のそれだけだ。この道を歩いていくと、大同心、小同心という岩峰へ通じる沢があり、これを越えて進むと、今度はこれより大きなジョ―ゴ沢があり、これも横切って進んでいくのだが、真冬のことゆえ、これは雪に埋まっていて、足跡だけが先へと続いていた。この足跡を辿って進んでいくと、大きな段差(滝)があって先行者はザイルを出していた。これを見て初めて道を間違えたことに気付き、再び、元に戻って正しい道を探し出したということだけは何年かが経った今でもハッキリと記憶に残っている。
こんなことを思い出しながら、ジョ―ゴ沢を越えるが、今は雪はないのでここでこの沢へ誘い込まれることは間違ってもない。
また、この道は山腹のトラバース道だったように記憶していたが、本日、歩いてみると基本的には尾根道であったことに気付いた。ここは尾根道といっても、尾根を忠実に登り上がる道ではなく、勾配が急な所は上手いことジグザグに道が切られているので、概ね、安定した斜度を登っていくようになっている。このような山深い所に人間の生活の場があったとは考えられず、この道は杣人が造った生活の道ではないと理解されるが、登山道に往々にある力任せに強引に登り上がる道ではなく、登山者の身体に優しい道が上手く造られている。
この道の斜度は27%(430/1570)で、登山口から赤岳鉱泉までの道の斜度14%(530/3820)に比べると格段に厳しい道ではあるが、そのことを感じさせないのは、この構造のせいだと、こうしてレポートを書いていて理解できた。
とはいえ、身体は厳しい道だということを次第に理解するようになり、頭とは別にぐずり出した。そうなると、右手が比較的に開け、回りがモミかシラビソの樹林という景色にならないかと、頭の中の景色と現実のそれが合致しないかと思うようになる。赤岩ノ頭の手前は、こんな景色だったという記憶があるからだ。何故、これを記憶しているかというと、ここでモミだかシラビソだかに積もった雪が目の前でドサッと落ちてきたのが新鮮な記憶として残っているからだ。
こんな記憶の場面に似た場所にやってきた。『もう直ぐそこだ』と思うと、精神的に余裕が出てきたのか、道の脇にヒメイチゲが咲いているのを見付けた。ここに来るまでに見た花は、レイジンソウを極小にしたような名前の分からないものだけだったので、早速、撮影に取り掛かる。とはいっても、三脚を立てることなく、また、レンズも18~200mmのズームレンズで撮るのであるから、出来映えの保障は定かではないものだが……。また、この近くにわが三太夫家の家紋でもあるコミヤマカタバミも見付かった。この花は、なかなか綺麗に花を広げたものにお目にかかれないが、ここでは開いていた。それだけ、本日の天気が良いことを物語っていることに気付き、思わず見上げると、樹林の先には綺麗に晴れ上がった青空が見えていた。
この先、進行方向の左手、南のほうの樹木が途切れて先のほうまで見渡せていた。そこには主峰の赤岳が、これと並ぶ阿弥陀岳、手法を守るがごとく横岳が、赤岳と阿弥陀を繋ぐ中岳、その奥には権現岳までが見て取ることができた。
こんな景色が続き、そして向きを変えると赤岩ノ頭の三叉路があった。

赤岩ノ頭に到着したとき、9時31分。赤岳鉱泉から2時間を要した勘定になる。ここのコースタイムは1時間20分で、私は40分オーバーしたことになり、やはりこの道は見た目ほど簡単ではなかったことを如実に物語っている。
ここには夫婦とおぼしき2人連れが休んでいた。私も彼らに倣おうと思い、ザックの肩紐を外そうとしたとき、腰にキヤッとした痛みが走った。これまで、腰に疲れが溜まることはあっても痛めたことはなかったので、この痛みは初めての経験であった。少し休んでおれば治るかもしれないと思い、ザックからお茶を取り出して飲み、しばしの休憩をとる。
5分ほどだろうか、10分も休んだだろうか。そろそろ行かなければと思い、ザックの肩紐に腕を通して担ぎ上げようとすると先ほどに増しての痛みが走る。『困ったことになった。歩けるだろうか』と心配になったが、そのまま2、3回、足踏みしてみると、歩けないことはないので歩き始めた。
この先の硫黄岳は、ここから見えている。とはいうものの、結構な登りをこなさねばならない。私の記憶では緩やかに登り上がるというものだが、ここから見るかぎりではそんな生易しいものではないようであり、気を引き締めて歩き始める。
実際に歩き始めれば、距離も短いものであることもあって、それほどでもなかった。先ほどの正月に登ったときには、赤岩ノ頭に登り上がると猛烈な吹雪で、眼鏡を外して登ったので、登る大変さより吹雪の大変さのほうが勝り、チョコチョコッと登ったような印象が残ったと思われる。
また、頂上直下では岩場を避けて右手から巻いて登ったが、右手が切れ落ちた箇所があって、ここを左ピッケルで通過する自信がなく、ここを通らずに左手の岩場をよじ登ったが、今はそんななことはせずとも、道に従っていけばよい。
10時10分、硫黄岳頂上に到着する。
ここの頂上はだだっ広い。三角点は噴火口脇に埋められているらしいが、この周りにはロープを張り巡らせて立ち入ることを禁止している。その代わりに、頂上広場には幾つものケルンが立てられていて、これらを頂上と見做している。このケルンのうち、大きそうに見えるものが経つ場所を頂上と見做して証拠写真を撮る。また、ロープ内で近付けるだけ、近付いて爆裂火口の写真を撮るが、ロープの制限があって生々しいものを撮ることはできなかった。
こここから下山していくと鞍部に硫黄岳山荘があり、この辺りを大ダルミと呼ぶ。
この辺りで、以前、ウルップソウを見たことがあるので、今年も咲いていないかと注意して歩くが、まだ早いのか、見付けることが下手だったかは不詳ながら、この花を見ることはかなわなかった。
大ダルミを過ぎると、横岳の登りに入る。
大ダルミの標高が2650mで、横岳(奥ノ院)頂上が2830mであるから、数字上では180mに過ぎないが、これがなかなかの曲者で、一気に登り上がることはできずに、途中でオニギリ1個を食べる食事休憩を採ったほどだった。
この頂上の手前にツクモグサが咲く場所があり、ここでいい写真が撮れれば、先へ進む必要はないので引き返すことも選択肢の1つ入っていたが、アテにしていた場所に目指す花は咲いてはおらず、こうなると横岳を通過せざるを得なくなる。
横岳という山は、岩峰が固まっているものの総称である。硫黄岳のほう、すなわち北側からいうと、台座の頭で始まり、大同心、小同心、奥ノ院、三叉峰、石尊峰、鉾岳、日ノ岳、二十三夜峰と続き、地蔵ノ頭で終っている。これでも分かるように横岳という峰はないが、これらの峰々の内、最高峰である標高2829mの奥ノ院を、通常、横岳の頂上と称している。
なお、この内で大同心、小同心は主稜線から西側に離れて張り出した岩峰で、直接に着通過することはないが、これは岩登りに最適なことから、この手の同好者には馴染みがあり、その名前も一般にも浸透している。その他、奥ノ院の他では、杣添尾根と主稜線の交点にある三叉峰が登山者が口にすることはあるが、その他の峰は巻いて通り過ぎるので殆ど名前は知られていない。
以上でも分かるように横岳を通り過ぎるには、これらの岩峰を乗り越していくなり、直下を巻いていかなければならず、この間は岩登り、もしくは岩場の歩きを強いられる。危険な所には梯子なり、鎖なりの補助具が取り付けられているので、私のような岩登りの素人でも無難に通過できるようになってはいる。
しかし、最近の私は脚力が衰えているのに加えてバランスもとるのも下手になっているので、従前に比べるとこういう場所の通過は負担を感じるようになっている。このため、取り付けられた補助具に100%頼っての通過を余儀なくされ、時間も普通の人の倍もかかる始末であった。特に、奥ノ院(横岳頂上)への登り、日ノ岳から二十三夜峰への降りには苦労した。
さて、今般の最大の目的であるツクモグサは、三叉峰を過ぎた辺りからボツボツと現れるが、この頃には今朝がたにはあれだけ良かった天気も、お昼ごろから下り坂に入り、雲が出て太陽を隠すようになっていた。
ツクモグサは日の光に敏感な花で、曇りの際には花びらを閉じ加減にして、パッと開くのは太陽の光を気持ちよく浴びるときに限られているようで、今のような雲が多くては花を見る前から望み薄であった。また、半開きの花を見ると、花弁の外側に毛は生えておらず、花自体が終盤を迎えていることが分かる。八ヶ岳も、鈴鹿と同様に今冬は雪が少なく、花の咲く時期が早まったようである。
こうして、ツクモグサへの期待は急速にすぼまったが、もう一つ、光明があった。
それは、横岳を登っている際、出会った登山者からもたらされた。その朗報とは、三叉峰の先でウルップソウが1つだけだが咲いていたというものだった。この登山者は、このときに撮ったスマホの写真も見せてくれたので、間違いはない、信用できる話であった。
これを楽しみに、苦しく怖い岩場の通過をこなしてきた。三叉路を通過してからは、全神経を登山道に注ぎ、『見落とすまい』と必死になるが、なかなか現れてはくれなかった。三叉路からだいぶ過ぎた所で、ザックを降ろしてカメラだけを持って戻ることにした。こうして三叉路まで1往復したが、無情にも見付けることはかなわなかった。
ウルップソウも空振り、ツクモグサも期待薄というのでは、ここまできた意味はない。その他の珍しい花というと、チョウノスケソウをゲットできたが、ツクモグサへの期待が高かっただけに、これで補って帳消しとはいかなかった。
最後のチャンスである日ノ岳までやってきた。ここには多くのツクモグサがあったが、何れもが花を閉じたものばかりだった。これはある程度は予想していたことであり、落胆はなかった。というより、ここに来るまでに充分に落胆していたので、ショックは少なかったというだけの話だ。
明7日の天気が良ければ、このあと、赤岳天望荘で泊まるという手もあるが、生憎、明日は雨が予想されている。このため、降りられれば、本日中に美濃戸まで帰りたい。
そこで、出発してからここまでずっと抱えてきたカメラをザックに仕舞い、この先、歩くことに専念する体制を整え、地蔵ノ頭へ向かう。
13時45分、地蔵ノ頭に到着する。ここで横岳への登りの食事休憩の続きで残りのオニギリを食べ、小休止を兼ねる。
硫黄岳からここまで稜線の縦走に3時間35分を要している。コースタイムは2時間10分であるので、如何に足の弱った私としても、この差は大き過ぎる。岩場を越すのに如何にてこずったかの証明でもある。
腰のほうは相変わらずの状態である。身体を強くひねったりすると飛び上るほどの痛みを感じるが、普通に歩いている分には痛みはない。でも、腰全体が何か他人のもののような感じで、こんな経験は今までに味わったことはない。この状態で、美濃戸までもつかという不安がないといえば嘘になるが、1晩、泊まって治る保証もない。こういう場合は、多少、無理をしても降りたほうが賢明のように思える。この判断が正しいか、否かは判らないかが、安全圏の街中へ身を置きたい。
このため、早々に休憩を切り上げて、地蔵尾根を降り始める。
この尾根は、これまでに何回も降りているが、急降下続きで下手すれば危険に陥る可能性が高い。普通、登山道は時の経過とともに安定してくるが、ここの場合はこれがあてはまらない。何時、降っても急場に造られた登山道という感じが変わらない。別に、壊れて道が付け変えられている訳ではないので余計に不思議な感じを抱く。
それでも工事用の足場用の階段などを多用し、涙ぐるしいくらいに手は入っているが、抜本的な対策が取られていないためか、安定感に欠ける道である。
こんな道である。足でも踏み外したら大ごとになるので、手摺があれば必ず掴み、一歩、一歩、足元を確認しながら慎重に降りる。それでも、降りは、降りで、登りに比べれば格段に速い。14時45分には行者小屋に到着した。
ここは小屋の前の広場がテント場になっていて、これまでなら色とりどりのテントが張られているのだが、本日は様子が違っていた。この広いテント場に1張りのテントも見られなかった。ちなみに、今朝ほどの赤岳鉱泉のテント場には2、3張りのテントがあり、このときは少ないとの感じを抱いたが、行者小屋ではここより悪かった。
ここの小屋に立ち寄った。確認したいことがあったためだ。
ここから美濃戸へ帰るには、このまま真っ直ぐに南沢を降っていくという方法と、いったん、赤岳鉱泉に出て今朝ほど通ってきた北沢を降るというものだ。
普通なら、文句なく南沢ルートを採る。だが、15時近くでは要する時間によっては途中で暗くなることが考えられる。北沢ルートなら、最後の1時間は林道歩きであるため、暗くなっても構わないという事情がある。
どちらのルートを採るかということを考える上で、行者小屋と赤岳鉱泉の間に要する時間が知りたかったためである。
小屋の従業員に、「赤岳鉱泉までどれくらいかかりますか」との問いに対して、「1時間くらい……」との返事だった。では、南沢を降った場合、美濃戸までどれくらいかかるかと訊くと3時間という返事だった。ということは、どちらでも同じだということになる。18時着なら暗くはならないであろうが、途中、アクシデントが発生すればと考えると、北沢へ回ったほうが得策かとも思えてくる。
だが、従業員は美濃戸までなら南沢を降りたほうが早いというので、彼の言葉を信じることにして、南沢ルートで帰ることにした。
このルートは、同じ沢沿いとはいえ北沢のそれに比べると沢を歩く距離が長く、徒渉箇所も分かり難い所があって私向きではないが、これまで何回も通っている道でもあり、無難に歩くことができた。
なお、道の途中で一部が壊れたためか、付け変えられた部分があったが、ここは誘導ロープが張り巡らしてあり、間違えようにも間違えようがないようになっていた。
歩いていると、徐々に思い出されてくる。小屋で聞いた時間より早く着くことが分かって喜んだ。
このルートではホテイランが自生しているので、今朝ほどは帰りに撮影するつもりであったが、今となってはどちらでもよくなっていた。でも、目の前に花が現れると、黙って通り過ぎるのが悪いような気がしてきて、結局、ザックを降ろすことになった。ただし、三脚は立てず、レンズも取り替えずというのは今朝ほどと同じであった。
16時52分、美濃戸山荘まで戻ってきた。腰も何とか持ち堪えた。
今回のルートをコースタイムで歩いたとすると、1周するのに8時間10分を要する。これにたいとて、私の場合は11時間18分もかかったことになり、如何にヨロヨロと歩いたかが分かる。しかし、私自身としては、腰を痛めたとはいえ、11時間も歩き通すことができたということは信じ難い事実でもあり、ある種の満足感を抱いた。でも、傍から見れば年寄りの冷や水以外何物でもなかろうとの反省もある。

毎年、6月の第1日曜日に八ヶ岳の開山祭が行われる。ただし、今年はどういう理由かは不詳だが、6月2日に行われたとのことだが……。
この頃、この山域に咲く特別の花がある。ツクモグサとホテイランである。
この花を観賞するため、この頃になるとここへ出かけることが多い。ただし、ホテイランは比較的に低い場所に咲くので毎年のように見られるが、ツクモグサの咲く場所は稜線上であるので、それなりの気構えがないと見ることはかなわない。こんな事情があって、ツクモグサを見たのは随分と昔のことになってしまった。
先日、ツクモグサの写真が欲しくて過去に移したものを調べたところ、最終が2009年のものしか見付からなかった。2010年にも写しているはずであるが、これが見付からない。
2010年のものは1眼レフカメラで写しているので、これが欲しい所だが、バカチョンカメラで撮った09年のものしかなかった。考えられるのは、パソコンを修理に出したとき、外付けのハードディスクにバックアップを取ったが、修理から帰ってきたパソコン本体に戻さずにいたら、外付けのハードディスクが壊れてしまい、画像の一部を喪失してしまったことがある。このときになくなったものだと思われる。
こうなると、失った画像が惜しくてたまらなくなり、今年、このシーズンに再撮影に訪れたいと痛切に思うようになった。今年を逃すと、身体の衰えもあるので2度とはチャンスはないと考えられる。
ツクモグサが咲く場所は横岳である。
これまで撮影のために、ここを訪れた際には、何れも桜平からオーレン小屋経由で夏沢峠に登り、ここから硫黄岳、横岳を縦走、復路は同じ道を引き返すか、峰ノ松目を経由してオーレン小屋に至るという変わり映えのしないルートである。
しかし、これだと何とももったいないところがある。往路は最短でよいとしても、復路は横岳を抜けきって地蔵ノ頭から行者小屋経由で南沢から美濃戸へ降りたほうが理想的だ。
だが、これを阻むのが、桜平と美濃戸もしくは美濃戸口との距離である。車2台で試みるか、タクシーでも使わないことには、これは無理である。このため、心ならずも桜平から横岳のピストンをしてきた。
桜平から硫黄岳までのコースタイムは3時間、一方、美濃戸から硫黄岳までは4時間で、その差は1時間だ。でも、この差は復路のことを考慮すると充分に吸収は可能だと思われる。
このため、今般は次のルートで行くことにした。
すなわち、美濃戸~(北沢)~赤岳鉱泉~赤岩ノ頭~硫黄岳~(硫黄岳山荘)~横岳~地蔵ノ頭(赤岳天望荘)~行者小屋~(南沢)~美濃戸というものだ。
もちろん、この距離を今の私が日帰りでこなすのは無理だと考えられるが、硫黄岳山荘、赤岳天望荘、行者小屋と泊まる場所には事欠かないので、そのときの体調で臨機応変に対処すればよい。
本当は6月2日、3日にすればよかったが、これを逃してしまった。3日を境に芳しい天気ではなくなってきた。梅雨が差し迫っているのでいたしかたないが、何とか2日間の好天が欲しい。
4日と5日の午前中は雨模様だが、6日は晴れのち曇りであった。ちなみに、7日も雨との芳しからざる予報である。
5日、午後からは予報通りに天気は回復、青空が顔を覗かせるようになった。こうなると、居ても立ってもおられなくなり、強引に姫君の了解を取り付け、6日のワンチャンスに賭けることにした。
こういうと、もう少し天気と相談しながら行けばよいという声が聞こえそうだが、花には花期というものがあるので、天気の都合だけに合わせて悠長に構えてはおれないという事情があるのだ。
必要な荷物を車に積み込み、15時30分頃、自宅を出発する。
途中、スーパーとガソリンスタンドに立ち寄り、2日分の山での食料とガソリンを満タンにして東名高速道の春日井インターチェンジ(IC)へ急ぐ。
日曜日で道が混んでいたのでいつもより時間がかかったが、16時35分に春日井ICから東名高速道に乗り、直ぐに中央自動車道に乗り移る。あとは一直線、2時間ほどで諏訪湖サービスエリア(SA)に到着する。
この日は、ここで泊まって、翌朝、登山口の美濃戸へ向かうことにする。
食事を済ませて眠るが、なかなか寝つかれない。そのうちにウトウトッとするが、直ぐに目が覚めてしまう。何時もいるはずの姫君がいないためか、それとも明日のことが気になるのかは分からないが、こんなことを繰り返しているうちに何時しか朝を迎えてしまう。

6日、4時過ぎに目覚めると既に薄明るくなっていた。予報のとおり、天気は良いようだが、それを占うには充分なほどの明るさではない。
何れにしても、便所に行っただけで直ぐに出発する。
南諏訪ICで自動車道を降りると、ズームラインという名前の付いた県道が八ヶ岳へ向かって一直線に続いているので、これを走っていけばよい。この道路の愛称は、カメラのズームレンズを覗いたときのように、この道路を走るに伴い八ヶ岳が大きくなって迫ってくるといういみで名付けられたということが走っていくと実感できる。ちなみに、最近は高速道路を使うことはないので、この道を走ることはない。このため、この感触を味わったのは久しぶりのことで、当たり前のように走っていた当時が懐かしく思い出された。
美濃戸口にやってきた。最近では、この美濃戸口の駐車場に車を駐車して、美濃戸までは歩くことが多いが、本日は時間の稼げる最奥の美濃戸まで車を乗り入れる予定だったので、迷わずにここを素通りして林道へと車を乗り入れる。
美濃戸口に車を駐車させて美濃戸まで林道を歩くのは、駐車料金の問題もさることながら、この区間の道路面が悪いことが一番の原因である。また、これとは別に積雪時に四輪駆動(4WD)の車の前輪だけにチェーンを巻いて走ったところ、制御不能に陥って怖い思いをしたこともトラウマとなっている。
この林道は未舗装が原則だが、急カーブの所だけはスリップ防止のために部分的にコンクリート舗装が施されている。しかし、工事後、長年にわたって放置されているため、大半の箇所のコンクリートが粉々に割れていて、未舗装の穴ぼこ以上に始末が悪い。地道の部分は山開きに際して手が入ったようで、思っていた以上に凸凹は少なかった。とはいえ、セカンドギア―や、ときにはローギアーを使い分けてノロノロ運転で美濃戸まで走ることになった。
美濃戸には3軒の山小屋がある。1番手前にあるのが『やまのこ村』、次が『赤岳山荘』、最奥が『美濃戸山荘』である。美濃戸山荘の駐車場は宿泊者のみであり、私たちが停められるのは、2つだけである。このうち、歩く距離が少なくて済むのは赤岳山荘であるので、専ら停めるときは必然的にここになる。
やまのこ村を通り過ぎて赤岳山荘にやってくると、売店の中から女性が出てきて私の車を停めて駐車料金を請求する。1日が1000円、以前と変わりない料金だった。ちなみに、美濃戸口の駐車料金は500円である。
料金を支払うと、「車が大きいから道路側の駐車場を使用してください」と駐車場所を指定される。少し先へ進むと、囲いの中とは別に道路脇に10台ほどが停められるように地面にロープを張って区分けがしてあった。まだ、時間が早いためか、ここには1台の車も停まっていなかったが、囲いの中には5、6台が駐車してあった。これらは上で泊まっている登山者の物だと分かるが、山開き直後にしてはやや寂しい感じがした。
このとき、時刻は5時を少し回ったばかりで、まだ食欲はなかったので、食事は次の赤岳鉱泉で摂ることにして、荷物の整理と身支度のみを行う。
上半身は半袖のTシャツの上に薄手のスポーツシャツ、下はジーパン。最近、ゴム長靴を止めて登山靴を履くようになっているが、これと共に靴擦れに悩まされるようになっている。このため、本日はニッカホースの毛糸の靴下を持ってきたので、これに登山靴を履いた。
こうして身支度を整えて車の外に出ると、少し肌寒い。カッパの上を羽織ることも頭をかすめたが、少し歩けば暖かくなることは分かっているので、最初のうちだけは多少の寒さを辛抱することにする。
5時29分、赤岳山荘の駐車場を後にして、最初の目的地の赤岳鉱泉へ向かって歩き始める。
道は、これまで走ってきた林道の延長である。直ぐに木橋が架かっていて、ここにロープを張って車両を通行止めしてある。このロープの脇に人、1人が通られるだけの余裕が設けてあるので、ここをすり抜けて橋を渡る。道は登り勾配で、歩き始め早々では些か身体に堪えるが仕方がないので、そのまま登り上がっていく。
歩き始めてから5分くらいすると、美濃戸山荘の前にやってきた。
ここが登山口である。八ヶ岳の代表的な山、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳などの西側から代表的な登山口であり、美濃戸山荘の名前は一度でも八ヶ岳へ登った経験のある人ならたいていの人が知っているといっても過言でないくらい有名である。
とはいっても、山小屋である。建物自体は貧弱なものだし、今は早朝ということもあってひっそり閑と静まり返っていた。
美濃戸山荘は、2つの登山ルートの登山口となっている。1つは南沢沿いを登る南沢登山口、もう1つはこれから私が登ろうとする北沢登山口だ。
前者はここから直ぐに登山道となるが、後者はここから暫くは歩いてきた林道の延長をそのまま歩いて行く。私たちは、圧倒的に南沢登山道を使用することが多いが、全体的には北沢登山道が多く用いられることもあって、ここは単なる林道の途中であって登山口という雰囲気に欠けるところがある。
美濃戸山荘を道なりに左折してそのまま歩いていく。前述のように、北沢ルートはあまり歩いたことはないので、記憶はおぼろであるが、何時かの帰り道でもういい加減に着かないかと思ったほどに長かったような記憶があるので心して歩いたが、記憶ほどではなく、1時間弱で倉庫3棟が見えたと思ったら、北沢へ降り立ち、ここで林道は終わっていた。ちなみに、この倉庫は赤岳鉱泉の所有物らしく、この前には車3台も駐車してあった。
この林道終点で車道は終わる。ここから直ぐに北沢を渡って、この沢の左岸に渡り、ここから登山道が始まる。登山道といっても道幅は広く、手入れの行きとどいた歩き易い道で、南沢の道とは雲泥の差といってもいいくらいであった。また、沢道特有の徒渉も数回あるが、何れも立派な橋が架けられていて、徒渉場所に神経を使う必要はなく、この面でも気配り十分といえる。
赤岳に登る人の中でも、北沢経由で赤岳鉱泉に行き、ここから行者小屋経由で登る人も多いのを、これまでは『どうしてであろうか?』と不思議に思っていたが、こうしてここを歩いてみて、この歩き易い道のせいだと自然に答えを出すことができ、これまでの疑問が一気に解消された。
この道を歩いていると、キバナノコマノツメが多く咲いているのが目に付いた。これまでの林道では、精々、シロバナヘビイチゴが咲いていたくらいであったことから撮影意欲を刺激されたが゛、まだ、先の長い道中を始めたばかりということが頭にこべり付いているだけに、ジックリと三脚を立てて取る気分にはならず、取り敢えずカメラに収めるだけにして先を急ぐ。ちなみに、本日、持参のカメラは1台のみで、ズームレンズとマクロレンズを持ってきており、必要に応じてレンズ交換する予定であった。レンズ交換をする手間は、結構、面倒であり、マクロレンズを使うのは本命のツクモグサを撮るときだけにするつもりで、道中の花は半ば諦めている。
7時29分、赤岳鉱泉に到着する。
駐車場を出発してからちょうど2時間で着いたことになるが、これはコースタイムと同じである。この間の距離は3.8㎞、標高差が530mというのに加えて都会の舗装道路に近いような良い道ということが味方してくれたことが大きく寄与して、このような結果が残せたようだ。
この時間になると、何時も朝食を摂るので自然にそのモードになる。
小屋前のテラスに置かれたテーブルを借りて、用意してきた稲荷寿司を食べ、朝食代わりにする。ちなみに、これ以後の食事は総てオニギリである。昔は色々と考えたが、最近は2日や3日は食べなくとも死ぬわけではないので、必要最低限のもの、オニギリかパンを用意するだけになっている。
7時40分、食事を終えてザックを担ぎ上げ、次の赤岩ノ頭へ向かって歩き始める。最初は小屋前のテラスを歩いて小屋の玄関に行くが、玄関ドアーは締まり、中から人の気配はまったく感じられず、前夜の宿泊客が少なかったことはいわずもがなである。
小屋の玄関前から赤岩ノ頭へ通じる道が始まっている。段差の高い石段を「よっこいしょ」と2、3段登り上がると、岩混じりの道が樹林の中へと通じているのでこれを歩いていく。
この道は2、3度は歩いたと思うが、詳しいことは記憶から欠落してしまっている。ただ1つ記憶に残っているのは、ある年の正月山行のそれだけだ。この道を歩いていくと、大同心、小同心という岩峰へ通じる沢があり、これを越えて進むと、今度はこれより大きなジョ―ゴ沢があり、これも横切って進んでいくのだが、真冬のことゆえ、これは雪に埋まっていて、足跡だけが先へと続いていた。この足跡を辿って進んでいくと、大きな段差(滝)があって先行者はザイルを出していた。これを見て初めて道を間違えたことに気付き、再び、元に戻って正しい道を探し出したということだけは何年かが経った今でもハッキリと記憶に残っている。
こんなことを思い出しながら、ジョ―ゴ沢を越えるが、今は雪はないのでここでこの沢へ誘い込まれることは間違ってもない。
また、この道は山腹のトラバース道だったように記憶していたが、本日、歩いてみると基本的には尾根道であったことに気付いた。ここは尾根道といっても、尾根を忠実に登り上がる道ではなく、勾配が急な所は上手いことジグザグに道が切られているので、概ね、安定した斜度を登っていくようになっている。このような山深い所に人間の生活の場があったとは考えられず、この道は杣人が造った生活の道ではないと理解されるが、登山道に往々にある力任せに強引に登り上がる道ではなく、登山者の身体に優しい道が上手く造られている。
この道の斜度は27%(430/1570)で、登山口から赤岳鉱泉までの道の斜度14%(530/3820)に比べると格段に厳しい道ではあるが、そのことを感じさせないのは、この構造のせいだと、こうしてレポートを書いていて理解できた。
とはいえ、身体は厳しい道だということを次第に理解するようになり、頭とは別にぐずり出した。そうなると、右手が比較的に開け、回りがモミかシラビソの樹林という景色にならないかと、頭の中の景色と現実のそれが合致しないかと思うようになる。赤岩ノ頭の手前は、こんな景色だったという記憶があるからだ。何故、これを記憶しているかというと、ここでモミだかシラビソだかに積もった雪が目の前でドサッと落ちてきたのが新鮮な記憶として残っているからだ。
こんな記憶の場面に似た場所にやってきた。『もう直ぐそこだ』と思うと、精神的に余裕が出てきたのか、道の脇にヒメイチゲが咲いているのを見付けた。ここに来るまでに見た花は、レイジンソウを極小にしたような名前の分からないものだけだったので、早速、撮影に取り掛かる。とはいっても、三脚を立てることなく、また、レンズも18~200mmのズームレンズで撮るのであるから、出来映えの保障は定かではないものだが……。また、この近くにわが三太夫家の家紋でもあるコミヤマカタバミも見付かった。この花は、なかなか綺麗に花を広げたものにお目にかかれないが、ここでは開いていた。それだけ、本日の天気が良いことを物語っていることに気付き、思わず見上げると、樹林の先には綺麗に晴れ上がった青空が見えていた。
この先、進行方向の左手、南のほうの樹木が途切れて先のほうまで見渡せていた。そこには主峰の赤岳が、これと並ぶ阿弥陀岳、手法を守るがごとく横岳が、赤岳と阿弥陀を繋ぐ中岳、その奥には権現岳までが見て取ることができた。
こんな景色が続き、そして向きを変えると赤岩ノ頭の三叉路があった。

赤岩ノ頭に到着したとき、9時31分。赤岳鉱泉から2時間を要した勘定になる。ここのコースタイムは1時間20分で、私は40分オーバーしたことになり、やはりこの道は見た目ほど簡単ではなかったことを如実に物語っている。
ここには夫婦とおぼしき2人連れが休んでいた。私も彼らに倣おうと思い、ザックの肩紐を外そうとしたとき、腰にキヤッとした痛みが走った。これまで、腰に疲れが溜まることはあっても痛めたことはなかったので、この痛みは初めての経験であった。少し休んでおれば治るかもしれないと思い、ザックからお茶を取り出して飲み、しばしの休憩をとる。
5分ほどだろうか、10分も休んだだろうか。そろそろ行かなければと思い、ザックの肩紐に腕を通して担ぎ上げようとすると先ほどに増しての痛みが走る。『困ったことになった。歩けるだろうか』と心配になったが、そのまま2、3回、足踏みしてみると、歩けないことはないので歩き始めた。
この先の硫黄岳は、ここから見えている。とはいうものの、結構な登りをこなさねばならない。私の記憶では緩やかに登り上がるというものだが、ここから見るかぎりではそんな生易しいものではないようであり、気を引き締めて歩き始める。
実際に歩き始めれば、距離も短いものであることもあって、それほどでもなかった。先ほどの正月に登ったときには、赤岩ノ頭に登り上がると猛烈な吹雪で、眼鏡を外して登ったので、登る大変さより吹雪の大変さのほうが勝り、チョコチョコッと登ったような印象が残ったと思われる。
また、頂上直下では岩場を避けて右手から巻いて登ったが、右手が切れ落ちた箇所があって、ここを左ピッケルで通過する自信がなく、ここを通らずに左手の岩場をよじ登ったが、今はそんななことはせずとも、道に従っていけばよい。
10時10分、硫黄岳頂上に到着する。
ここの頂上はだだっ広い。三角点は噴火口脇に埋められているらしいが、この周りにはロープを張り巡らせて立ち入ることを禁止している。その代わりに、頂上広場には幾つものケルンが立てられていて、これらを頂上と見做している。このケルンのうち、大きそうに見えるものが経つ場所を頂上と見做して証拠写真を撮る。また、ロープ内で近付けるだけ、近付いて爆裂火口の写真を撮るが、ロープの制限があって生々しいものを撮ることはできなかった。
こここから下山していくと鞍部に硫黄岳山荘があり、この辺りを大ダルミと呼ぶ。
この辺りで、以前、ウルップソウを見たことがあるので、今年も咲いていないかと注意して歩くが、まだ早いのか、見付けることが下手だったかは不詳ながら、この花を見ることはかなわなかった。
大ダルミを過ぎると、横岳の登りに入る。
大ダルミの標高が2650mで、横岳(奥ノ院)頂上が2830mであるから、数字上では180mに過ぎないが、これがなかなかの曲者で、一気に登り上がることはできずに、途中でオニギリ1個を食べる食事休憩を採ったほどだった。
この頂上の手前にツクモグサが咲く場所があり、ここでいい写真が撮れれば、先へ進む必要はないので引き返すことも選択肢の1つ入っていたが、アテにしていた場所に目指す花は咲いてはおらず、こうなると横岳を通過せざるを得なくなる。
横岳という山は、岩峰が固まっているものの総称である。硫黄岳のほう、すなわち北側からいうと、台座の頭で始まり、大同心、小同心、奥ノ院、三叉峰、石尊峰、鉾岳、日ノ岳、二十三夜峰と続き、地蔵ノ頭で終っている。これでも分かるように横岳という峰はないが、これらの峰々の内、最高峰である標高2829mの奥ノ院を、通常、横岳の頂上と称している。
なお、この内で大同心、小同心は主稜線から西側に離れて張り出した岩峰で、直接に着通過することはないが、これは岩登りに最適なことから、この手の同好者には馴染みがあり、その名前も一般にも浸透している。その他、奥ノ院の他では、杣添尾根と主稜線の交点にある三叉峰が登山者が口にすることはあるが、その他の峰は巻いて通り過ぎるので殆ど名前は知られていない。
以上でも分かるように横岳を通り過ぎるには、これらの岩峰を乗り越していくなり、直下を巻いていかなければならず、この間は岩登り、もしくは岩場の歩きを強いられる。危険な所には梯子なり、鎖なりの補助具が取り付けられているので、私のような岩登りの素人でも無難に通過できるようになってはいる。
しかし、最近の私は脚力が衰えているのに加えてバランスもとるのも下手になっているので、従前に比べるとこういう場所の通過は負担を感じるようになっている。このため、取り付けられた補助具に100%頼っての通過を余儀なくされ、時間も普通の人の倍もかかる始末であった。特に、奥ノ院(横岳頂上)への登り、日ノ岳から二十三夜峰への降りには苦労した。
さて、今般の最大の目的であるツクモグサは、三叉峰を過ぎた辺りからボツボツと現れるが、この頃には今朝がたにはあれだけ良かった天気も、お昼ごろから下り坂に入り、雲が出て太陽を隠すようになっていた。
ツクモグサは日の光に敏感な花で、曇りの際には花びらを閉じ加減にして、パッと開くのは太陽の光を気持ちよく浴びるときに限られているようで、今のような雲が多くては花を見る前から望み薄であった。また、半開きの花を見ると、花弁の外側に毛は生えておらず、花自体が終盤を迎えていることが分かる。八ヶ岳も、鈴鹿と同様に今冬は雪が少なく、花の咲く時期が早まったようである。
こうして、ツクモグサへの期待は急速にすぼまったが、もう一つ、光明があった。
それは、横岳を登っている際、出会った登山者からもたらされた。その朗報とは、三叉峰の先でウルップソウが1つだけだが咲いていたというものだった。この登山者は、このときに撮ったスマホの写真も見せてくれたので、間違いはない、信用できる話であった。
これを楽しみに、苦しく怖い岩場の通過をこなしてきた。三叉路を通過してからは、全神経を登山道に注ぎ、『見落とすまい』と必死になるが、なかなか現れてはくれなかった。三叉路からだいぶ過ぎた所で、ザックを降ろしてカメラだけを持って戻ることにした。こうして三叉路まで1往復したが、無情にも見付けることはかなわなかった。
ウルップソウも空振り、ツクモグサも期待薄というのでは、ここまできた意味はない。その他の珍しい花というと、チョウノスケソウをゲットできたが、ツクモグサへの期待が高かっただけに、これで補って帳消しとはいかなかった。
最後のチャンスである日ノ岳までやってきた。ここには多くのツクモグサがあったが、何れもが花を閉じたものばかりだった。これはある程度は予想していたことであり、落胆はなかった。というより、ここに来るまでに充分に落胆していたので、ショックは少なかったというだけの話だ。
明7日の天気が良ければ、このあと、赤岳天望荘で泊まるという手もあるが、生憎、明日は雨が予想されている。このため、降りられれば、本日中に美濃戸まで帰りたい。
そこで、出発してからここまでずっと抱えてきたカメラをザックに仕舞い、この先、歩くことに専念する体制を整え、地蔵ノ頭へ向かう。
13時45分、地蔵ノ頭に到着する。ここで横岳への登りの食事休憩の続きで残りのオニギリを食べ、小休止を兼ねる。
硫黄岳からここまで稜線の縦走に3時間35分を要している。コースタイムは2時間10分であるので、如何に足の弱った私としても、この差は大き過ぎる。岩場を越すのに如何にてこずったかの証明でもある。
腰のほうは相変わらずの状態である。身体を強くひねったりすると飛び上るほどの痛みを感じるが、普通に歩いている分には痛みはない。でも、腰全体が何か他人のもののような感じで、こんな経験は今までに味わったことはない。この状態で、美濃戸までもつかという不安がないといえば嘘になるが、1晩、泊まって治る保証もない。こういう場合は、多少、無理をしても降りたほうが賢明のように思える。この判断が正しいか、否かは判らないかが、安全圏の街中へ身を置きたい。
このため、早々に休憩を切り上げて、地蔵尾根を降り始める。
この尾根は、これまでに何回も降りているが、急降下続きで下手すれば危険に陥る可能性が高い。普通、登山道は時の経過とともに安定してくるが、ここの場合はこれがあてはまらない。何時、降っても急場に造られた登山道という感じが変わらない。別に、壊れて道が付け変えられている訳ではないので余計に不思議な感じを抱く。
それでも工事用の足場用の階段などを多用し、涙ぐるしいくらいに手は入っているが、抜本的な対策が取られていないためか、安定感に欠ける道である。
こんな道である。足でも踏み外したら大ごとになるので、手摺があれば必ず掴み、一歩、一歩、足元を確認しながら慎重に降りる。それでも、降りは、降りで、登りに比べれば格段に速い。14時45分には行者小屋に到着した。
ここは小屋の前の広場がテント場になっていて、これまでなら色とりどりのテントが張られているのだが、本日は様子が違っていた。この広いテント場に1張りのテントも見られなかった。ちなみに、今朝ほどの赤岳鉱泉のテント場には2、3張りのテントがあり、このときは少ないとの感じを抱いたが、行者小屋ではここより悪かった。
ここの小屋に立ち寄った。確認したいことがあったためだ。
ここから美濃戸へ帰るには、このまま真っ直ぐに南沢を降っていくという方法と、いったん、赤岳鉱泉に出て今朝ほど通ってきた北沢を降るというものだ。
普通なら、文句なく南沢ルートを採る。だが、15時近くでは要する時間によっては途中で暗くなることが考えられる。北沢ルートなら、最後の1時間は林道歩きであるため、暗くなっても構わないという事情がある。
どちらのルートを採るかということを考える上で、行者小屋と赤岳鉱泉の間に要する時間が知りたかったためである。
小屋の従業員に、「赤岳鉱泉までどれくらいかかりますか」との問いに対して、「1時間くらい……」との返事だった。では、南沢を降った場合、美濃戸までどれくらいかかるかと訊くと3時間という返事だった。ということは、どちらでも同じだということになる。18時着なら暗くはならないであろうが、途中、アクシデントが発生すればと考えると、北沢へ回ったほうが得策かとも思えてくる。
だが、従業員は美濃戸までなら南沢を降りたほうが早いというので、彼の言葉を信じることにして、南沢ルートで帰ることにした。
このルートは、同じ沢沿いとはいえ北沢のそれに比べると沢を歩く距離が長く、徒渉箇所も分かり難い所があって私向きではないが、これまで何回も通っている道でもあり、無難に歩くことができた。
なお、道の途中で一部が壊れたためか、付け変えられた部分があったが、ここは誘導ロープが張り巡らしてあり、間違えようにも間違えようがないようになっていた。
歩いていると、徐々に思い出されてくる。小屋で聞いた時間より早く着くことが分かって喜んだ。
このルートではホテイランが自生しているので、今朝ほどは帰りに撮影するつもりであったが、今となってはどちらでもよくなっていた。でも、目の前に花が現れると、黙って通り過ぎるのが悪いような気がしてきて、結局、ザックを降ろすことになった。ただし、三脚は立てず、レンズも取り替えずというのは今朝ほどと同じであった。
16時52分、美濃戸山荘まで戻ってきた。腰も何とか持ち堪えた。
今回のルートをコースタイムで歩いたとすると、1周するのに8時間10分を要する。これにたいとて、私の場合は11時間18分もかかったことになり、如何にヨロヨロと歩いたかが分かる。しかし、私自身としては、腰を痛めたとはいえ、11時間も歩き通すことができたということは信じ難い事実でもあり、ある種の満足感を抱いた。でも、傍から見れば年寄りの冷や水以外何物でもなかろうとの反省もある。

御在所岳(ございしょたけ・1212m) - 2016.05.26 Thu
昔のようには歩けなかった!
前回の山行きは、5月12日の御座峰(伊吹北尾根)であった。この山行きから2、3日も経つと体力的にもダメージは回復しているし、安定した天気が続いたこともあって、内心ではウズウズしていた。しかし、姫君に山行きを告げ、この許可を得るタイミングがなかなか掴めないでいた。
私はふくらはぎ(脹脛)の痛みにずっと苦しめられてきたが、今年の春先、必死になって痛みに耐えて山行きをこなしていると嘘のように治まってきた。痛みの原因が、何年か前に医者が付けてくれた『何とか筋の損傷』であるか、他に何かあるかは分からないが、山道の緩急の坂道を歩くことが自然のリハリビテーションになった結果だと私は思っている。
このため、リハビリを怠ると脹脛痛が再発する可能性が高いという強迫観念のようなものがあって山行きを切望するのだが、これを姫君は山へ行くための屁理屈だと考えているようで、私の山行きを快くは受け入れない。前回は買物に誘った上で山行きの話を切り出したが、買物が餌であることは即座に見抜かれているので、同じ手は利きそうもない。
しかし、好天が何時までも続かないのは当たり前のことで、週中からは天気が崩れるという天気予報に背中を押される形で、月曜日の夕方、自分自身を大いに鼓舞し、強い三太夫を取り戻して、翌日の山行きを一方的に宣言する。
こうして、5月24日に山行きという運びになった。
目ぼしい花は終わっているので、花狙いの山行きは諦めざるを得ず、山は何処でもよかった。こうなると思い付く山は、通い慣れた御在所岳だ。
6時30分頃、「行ってらっしゃい」との感情のこもらない姫君の声を背中で受けて自宅を出発する。
この時間帯だと道路は空いているので順調に走ることができ、『御在所山の家』の近くに設けられた駐車場には概ね2時間で到着した。何時もなら、満車またはこれに近い駐車場も、この日は半分程度の埋まり具合であった。

手早く出発の準備を終え、8時40分頃、駐車場を後にして歩き始める。
この日は、中道で登り峠道で武平峠経由で周回する予定で、姫君にもこのように記した登山届を提出してきている。
しかし、駐車場前の道路則面が工事中で、中道の登山口へ行くには本谷に降りて回り道して行かなければならなかった。このとき、急に気が変わり、一ノ谷新道から登ることにした。もう1つの本谷道も頭をかすめたが、本日は単身であり、谷の中では何が起こるかもしれないので、慌てて打ち消していた。
駐車場前と中道登山口の道路には警備員1人づつが立っていた。ここには工事用の簡易信号も取り付けてあるので、交通整理のようなことを行う必要性は低い。でも、ここは登山者で賑わう場所だけに、このような配慮があるのかもしれないが、公共工事が高額になる原因を垣間見た思いがした。
駐車場から逆Sの字を描くように緩やかに道路端を登り上がると、御在所山の家の前にやってきた。
一ノ谷新道の登山口という看板は設置されていないので、何処が登山口かと訊かれると正確な答えはないが、ここが登山口だといって差し支えはない。
ここから石段を登っていくと、御在所山の家の横に出る。ここを左手に採ると自然に登山道へと入っていく。とは書いたが、積雪期に最初に歩いたときには、この入口を見落してしまい、尾根を越えた向こう側から尾根に登るという間違いを犯している。このため、ここはどうなっているか、通るたびに気になるところだが、この日は木が置いてあって直進はできないようになっていた。
尾根に乗るまでの最初の内は、ジグザグ道を登っていくのだが、これがなかなかの急登である。『しまった。中道で行けばよかった』と、内心、悔いてはみたが、中道とて、ここと大差がないことを思い出して、仕方がないと諦めてヨロヨロと足を踏み出すことになる。
ヨロヨロと書いたが、最近では膝が弱くなって、踏み出した足が確実に固定できないせいか、この表現がピッタリな歩きになっている。この原因は分かっている。
10年くらい前から数年間は膝を痛めていた。このため、正座ができなくて畳の上では困ったが、今は半分以上が座らなくてもいい生活ができるので助かった。これも何時の間にか自然治癒してしまったが、生活のスタイルは悪かった時と同じで、膝を使うことはなく過ぎてきている。こんな生活では膝の鍛錬はできないので、弱くなるばかりである。
間もなく、尾根に乗った。
これから先は、この尾根を忠実に辿っていく登山道が作られているので、この道は考えるような所はない。気が楽であるが、反面、登りっぱなしである。
この登山道は、鈴鹿スカイラインの新設工事により、表登山道が使用できなくなった代替として造られたと仄聞したことがある。調べてみると、鈴鹿スカイラインの着工が1969年、完工が1972年ということだから、一ノ谷新道もこの頃に造られたことになり、完成後50年足らずの新しい道である。このように急増の登山道であるだけに、一部、尾根上に岩などがあって通行不能の場所を除くと忠実に尾根通しの道である。
このような登山道のため、勾配の緩急に関わらず尾根芯を歩くことになり、身体には堪えることになる。でも、一概に悪いばかりではない。この道は尾根道とはいっても樹林に覆われているので、道には至る所に木の根がはみ出していて、これが階段の踏み板の代わりになるし、手摺代わりにも使うことができる。このため、半分とまではいかないが、手の力も使うので、足だけで登るよりも足にくる疲労も分散される傾向にあるので、脚力の衰えた今では、これは大いに助かる。
途中の大岩を左から巻き、右から巻いて乗りきると、今度は長く尾根から外れた道を辿ることになる。この尾根には鷹見岩と呼ばれる巨岩が鎮座しているので直登はできずに巻くのではあるが、この辺りから花が見られるので注意して歩くが、時期が外れているのかいっこうに現れない。諦めかけたとき、イワカガミがポツポツと顔を見せ始めた。とはいっても、時期は過ぎているので、花は貧弱である。カメラを出すほどではないので、そのまま通り過ぎていたが、今度は青いものがあった。ハルリンドウだった。それも3つが重なるように並んでいて、被写体としてはなかなかのものだった。
しかし、この日は他の目的があり、ユックリとザックを降ろしてはおられない。このルートをどのくらいで登り上がることができるかを計ってみたいというものだった。
もう少し早く歩くことができた頃、このルートを1時間30分内外で歩いたことがある。今では、このようなスピードを求めるのは無理であるが、何とか、2時間以内で歩けないかを試したいとの思いがあったからだ。
イワカガミもハルリンドウも、今年になって既に出合っており、写真にも収めているし、後者に至っては頂上でも出合えるいう確信もあるからなおさらであった。
少し後ろ髪を引かれる思いはあったが、これを横目に通り過ぎる。ここから間もなくで、再び、尾根に登り上がる。鷹見岩の所だが、何時もとは異なり、斜めのトラバース道を採ったので、岩からはだいぶ離れていて、この岩を直接に見ることはなかったが……。
ここまでくれば、頂上までは残り少ない。とはいえ、ここからがこのルートの核心部でもあり、この先、急な岩場など手強い所が連続している。
岩場をよじ登るといっても、ここの岩場は危険を伴うようなものではないので、身体への負担はあっても精神的に加わる圧力というものはないので助かる。ちなみに、復路で通った峠道の岩場のほうが寧ろ危険度は高いといえた。
これらの岩場も通過して、頂上は近付いてきたことが分かった。以前は、ここからロープウェイの駅舎の横手に登り上がってから、石の階段を辿ってアデリアのある頂上広場へ降りていたが、今ではこの道は閉鎖され、トラバース気味に進んで同じ場所に到達するようになっている。
もう直ぐ頂上広場という所で時計を見ると、無情にも10時40分は過ぎていて2時間で到達という淡い夢は消え去っていた。
ここへ登り上がる直前に、白い花びらがかたまって落ちているのに気付く。そういえば、ここには花付きのよいシロヤシオの木が固まってあることを思い出し、上を見上げると半分以上の花を落とし、若葉色の葉っぱを茂らせた木がやや寂しげにそよ風に身を任せるように揺れていた。
頂上広場にザックを降ろしたとき、10時45分。目標にしていた2時間を切ることはできなかった。駐車場を歩き始めてからザックを降ろさず、当然、水も飲まずに歩き続けたが、結果はこの始末である。一生懸命、やってはみたが、無情にも体力、脚力の低下を思い知る結果になった。
先ほどのシロヤシオの所まで戻って、これらを撮影してから、頂上広場に行くと、地元、四日市からきたという人と話をする。すると、4日前、竜ヶ岳へ行ったところ、シロヤシオが盛りであったとのことであった。そういえば、山を選択するにあたって、シロヤシオのことはスッカリと失念していた。今年は、馬ノ背尾根のアカヤシオも、ここのシロヤシオの何れも盛りには間に合わなかった。そういえば、どういうわけだか木の花には草のそれよりも私には愛着がわかない。
彼との会話は切り上げて、頂上へと向かう。
その前に池のほうへも行っておこうと、便所の前を真っ直ぐに進んでいく。この判断が、結果的によかった。池の土手にハルリンドウが咲いているのを見付けた。もちろん、今度は大喜びで撮影するが、何時ものように接写レンズではなく、ズームレンズでの撮影であった。やはり、腹の底では初物ではないという思いがあったのだろう。
そういえば、冬場にゲレンデになる所にも、この花が咲いていたことを思い出し、頂上へはそこを登っていくことにして、リフトの下を通り抜けてゲレンデへと入っていく。
今度は、この思いは外れ、何も咲いてはいなかった。私の場合、何事も狙って行動を起こすと外れ、無心で動くとたまには奏功するようだ。
この緩やかな斜面を登り上がった先が本頂上だった。
ここには1等三角点があり、その後ろにはその旨を記した大きな看板が祀るように立てられている。しかし、これには少し誤りがあるようだ。
看板には、この三角点のある場所の標高が1211.95米(3916ft)であると書かれている。しかし、地形図から読み取ると1200m強であり、三角点の計測結果は1209.4mとなっている。ということは、看板の数値が間違っているということになる。
では、看板の数値は、何処からきているか。この本頂上から少し離れた所に、望湖台と名付けられたもう1つの頂があり、ここの標高点の値が1212mである。これら2つの数値が錯綜した結果が、この間違った看板になったものと推定できる。
この写真を撮った後、この一角に設けられているあずまや(四阿)に立ち寄る。ここでは既に先客がいて、肉を焼き、ビールを飲み、食事をしていた。私たちも、昔は山頂では焼鳥なり、焼肉なりでパーティを行うのを常としていたが、姫君と2人だけで行くようになると、この習慣も何時しか止めになり、今ではパンなり、おにぎりなりの質素な食事に変わってきた。
大阪から初めて御在所岳にきたという2人連れと山談義をしながら食事を済ます。ちなみに、私の食事はパン2つだけという粗末なもので、彼らとの収入差を如実に表していた。
いくら話をしながらとはいえ、この食事の質の差ではどうしても私のほうが早く終わってしまう。これを機に彼らと別れを告げて、次は望湖台に行ってみる。
御在所岳には幾つもの頂があるが、一番、高い頂がこの望湖台である。一般的に御在所岳の標高1212mというのは、三角点のある本頂上ではなく、ここの高さを用いている。
普段は本頂上に立ち寄ったときでも、この望湖台まで足を伸ばすことは殆どないが、本日は立ち寄る気になった。これは御在所にくるのも後何回もないことが身をもって感じたためだとお思うが、これは家に帰ってから結論付けたこことで、この時点ではもっと軽い気持ちだった。
望湖台には女性2人の先客がいたが、私と入れ違うように彼女らは去り、私が帰ろうとする若い男女がやってきた。本日は、登山者もロープウェイでくる観光客ともに少なく、ここも閑散としていた。
この岩の上に立つと、地獄谷から登ってきたときのことが思い出される。あるとき、ここへ登る場所を少し間違えて岩をよじ登って急にここへ顔を出したことがある。このとき、顔を合わせた人が何かとんでもないものでも見てしまったとでもいうような、何とも奇妙な顔をしていたことが今も忘れずに覚えている。
これで頂上は終わった。
次はこの頂上の隣の広場に行ってみる。ここには石碑があり、北尾根とでもいうか愛知川(神崎川)のほうからの尾根を登り上がってくると、この広場に到着するのだが、この隅にはハルリンドウが群がるように咲いていたことを思い出して立ち寄ってみることにしたが、盛りは既に過ぎたのか、1輪、また1輪とパラパラッと咲いているだけだった。
この広場から降りて頂上周回道路に降り立ったときには、既に12時10分になっていた。アデリアの広場に到着したのが10時45分であったので、頂上に滞在した時間は1時間25分にもなり、何時もよりのんびりしていたことになる。
この後は峠道で武平峠におり、ここから鈴鹿スカイライン沿いというか、これに付かず離れずの昔から登山道を通って駐車場まで帰るだけである。
これを降っていると、指差し岩と呼ばれる岩の所へやってきた。この辺り一帯が岩場になっていて、ここが少し嫌らしい所であった。ここで今朝ほどの姫君との会話を思い出していた。
峠道で降りることを告げると、「危ない所があるから気を付けてよ」と姫君がいう。「峠の手前のザレた所?」と訊き返すと、「違うわよ。岩場の所よ」と姫君が答えた。
この場所を、注意を払いながら慎重に降りながら、この会話を思い出していた。以前は、この程度の岩場は何でもなく、記憶にも残っていなかったが、今はこうして慎重に降りなければ……、1つ間違えば危険も伴うことがあることが切実な事実となっている。
私の記憶に残っていたザレ場は、相変わらず滑り易くはあったが、先ほどの岩場に比べれば何でもない場所であった。
こうして武平峠まで降りれば、後は歩き込まれた大昔からの登山道というか、当時の生活道路である。途中、谷沿いの道が壊れ、付け直しされていた所があったが、それ以外は以前どおりで何も変わる所はなかった。
御在所山の家の手前で、鈴鹿スカイラインに上がり、ここからは車道を歩いて駐車場まで帰り着いた。そのとき、14時10分頃。頂上周回道路沿いの四阿からちょうど2時間を要していた。

前回の山行きは、5月12日の御座峰(伊吹北尾根)であった。この山行きから2、3日も経つと体力的にもダメージは回復しているし、安定した天気が続いたこともあって、内心ではウズウズしていた。しかし、姫君に山行きを告げ、この許可を得るタイミングがなかなか掴めないでいた。
私はふくらはぎ(脹脛)の痛みにずっと苦しめられてきたが、今年の春先、必死になって痛みに耐えて山行きをこなしていると嘘のように治まってきた。痛みの原因が、何年か前に医者が付けてくれた『何とか筋の損傷』であるか、他に何かあるかは分からないが、山道の緩急の坂道を歩くことが自然のリハリビテーションになった結果だと私は思っている。
このため、リハビリを怠ると脹脛痛が再発する可能性が高いという強迫観念のようなものがあって山行きを切望するのだが、これを姫君は山へ行くための屁理屈だと考えているようで、私の山行きを快くは受け入れない。前回は買物に誘った上で山行きの話を切り出したが、買物が餌であることは即座に見抜かれているので、同じ手は利きそうもない。
しかし、好天が何時までも続かないのは当たり前のことで、週中からは天気が崩れるという天気予報に背中を押される形で、月曜日の夕方、自分自身を大いに鼓舞し、強い三太夫を取り戻して、翌日の山行きを一方的に宣言する。
こうして、5月24日に山行きという運びになった。
目ぼしい花は終わっているので、花狙いの山行きは諦めざるを得ず、山は何処でもよかった。こうなると思い付く山は、通い慣れた御在所岳だ。
6時30分頃、「行ってらっしゃい」との感情のこもらない姫君の声を背中で受けて自宅を出発する。
この時間帯だと道路は空いているので順調に走ることができ、『御在所山の家』の近くに設けられた駐車場には概ね2時間で到着した。何時もなら、満車またはこれに近い駐車場も、この日は半分程度の埋まり具合であった。

手早く出発の準備を終え、8時40分頃、駐車場を後にして歩き始める。
この日は、中道で登り峠道で武平峠経由で周回する予定で、姫君にもこのように記した登山届を提出してきている。
しかし、駐車場前の道路則面が工事中で、中道の登山口へ行くには本谷に降りて回り道して行かなければならなかった。このとき、急に気が変わり、一ノ谷新道から登ることにした。もう1つの本谷道も頭をかすめたが、本日は単身であり、谷の中では何が起こるかもしれないので、慌てて打ち消していた。
駐車場前と中道登山口の道路には警備員1人づつが立っていた。ここには工事用の簡易信号も取り付けてあるので、交通整理のようなことを行う必要性は低い。でも、ここは登山者で賑わう場所だけに、このような配慮があるのかもしれないが、公共工事が高額になる原因を垣間見た思いがした。
駐車場から逆Sの字を描くように緩やかに道路端を登り上がると、御在所山の家の前にやってきた。
一ノ谷新道の登山口という看板は設置されていないので、何処が登山口かと訊かれると正確な答えはないが、ここが登山口だといって差し支えはない。
ここから石段を登っていくと、御在所山の家の横に出る。ここを左手に採ると自然に登山道へと入っていく。とは書いたが、積雪期に最初に歩いたときには、この入口を見落してしまい、尾根を越えた向こう側から尾根に登るという間違いを犯している。このため、ここはどうなっているか、通るたびに気になるところだが、この日は木が置いてあって直進はできないようになっていた。
尾根に乗るまでの最初の内は、ジグザグ道を登っていくのだが、これがなかなかの急登である。『しまった。中道で行けばよかった』と、内心、悔いてはみたが、中道とて、ここと大差がないことを思い出して、仕方がないと諦めてヨロヨロと足を踏み出すことになる。
ヨロヨロと書いたが、最近では膝が弱くなって、踏み出した足が確実に固定できないせいか、この表現がピッタリな歩きになっている。この原因は分かっている。
10年くらい前から数年間は膝を痛めていた。このため、正座ができなくて畳の上では困ったが、今は半分以上が座らなくてもいい生活ができるので助かった。これも何時の間にか自然治癒してしまったが、生活のスタイルは悪かった時と同じで、膝を使うことはなく過ぎてきている。こんな生活では膝の鍛錬はできないので、弱くなるばかりである。
間もなく、尾根に乗った。
これから先は、この尾根を忠実に辿っていく登山道が作られているので、この道は考えるような所はない。気が楽であるが、反面、登りっぱなしである。
この登山道は、鈴鹿スカイラインの新設工事により、表登山道が使用できなくなった代替として造られたと仄聞したことがある。調べてみると、鈴鹿スカイラインの着工が1969年、完工が1972年ということだから、一ノ谷新道もこの頃に造られたことになり、完成後50年足らずの新しい道である。このように急増の登山道であるだけに、一部、尾根上に岩などがあって通行不能の場所を除くと忠実に尾根通しの道である。
このような登山道のため、勾配の緩急に関わらず尾根芯を歩くことになり、身体には堪えることになる。でも、一概に悪いばかりではない。この道は尾根道とはいっても樹林に覆われているので、道には至る所に木の根がはみ出していて、これが階段の踏み板の代わりになるし、手摺代わりにも使うことができる。このため、半分とまではいかないが、手の力も使うので、足だけで登るよりも足にくる疲労も分散される傾向にあるので、脚力の衰えた今では、これは大いに助かる。
途中の大岩を左から巻き、右から巻いて乗りきると、今度は長く尾根から外れた道を辿ることになる。この尾根には鷹見岩と呼ばれる巨岩が鎮座しているので直登はできずに巻くのではあるが、この辺りから花が見られるので注意して歩くが、時期が外れているのかいっこうに現れない。諦めかけたとき、イワカガミがポツポツと顔を見せ始めた。とはいっても、時期は過ぎているので、花は貧弱である。カメラを出すほどではないので、そのまま通り過ぎていたが、今度は青いものがあった。ハルリンドウだった。それも3つが重なるように並んでいて、被写体としてはなかなかのものだった。
しかし、この日は他の目的があり、ユックリとザックを降ろしてはおられない。このルートをどのくらいで登り上がることができるかを計ってみたいというものだった。
もう少し早く歩くことができた頃、このルートを1時間30分内外で歩いたことがある。今では、このようなスピードを求めるのは無理であるが、何とか、2時間以内で歩けないかを試したいとの思いがあったからだ。
イワカガミもハルリンドウも、今年になって既に出合っており、写真にも収めているし、後者に至っては頂上でも出合えるいう確信もあるからなおさらであった。
少し後ろ髪を引かれる思いはあったが、これを横目に通り過ぎる。ここから間もなくで、再び、尾根に登り上がる。鷹見岩の所だが、何時もとは異なり、斜めのトラバース道を採ったので、岩からはだいぶ離れていて、この岩を直接に見ることはなかったが……。
ここまでくれば、頂上までは残り少ない。とはいえ、ここからがこのルートの核心部でもあり、この先、急な岩場など手強い所が連続している。
岩場をよじ登るといっても、ここの岩場は危険を伴うようなものではないので、身体への負担はあっても精神的に加わる圧力というものはないので助かる。ちなみに、復路で通った峠道の岩場のほうが寧ろ危険度は高いといえた。
これらの岩場も通過して、頂上は近付いてきたことが分かった。以前は、ここからロープウェイの駅舎の横手に登り上がってから、石の階段を辿ってアデリアのある頂上広場へ降りていたが、今ではこの道は閉鎖され、トラバース気味に進んで同じ場所に到達するようになっている。
もう直ぐ頂上広場という所で時計を見ると、無情にも10時40分は過ぎていて2時間で到達という淡い夢は消え去っていた。
ここへ登り上がる直前に、白い花びらがかたまって落ちているのに気付く。そういえば、ここには花付きのよいシロヤシオの木が固まってあることを思い出し、上を見上げると半分以上の花を落とし、若葉色の葉っぱを茂らせた木がやや寂しげにそよ風に身を任せるように揺れていた。
頂上広場にザックを降ろしたとき、10時45分。目標にしていた2時間を切ることはできなかった。駐車場を歩き始めてからザックを降ろさず、当然、水も飲まずに歩き続けたが、結果はこの始末である。一生懸命、やってはみたが、無情にも体力、脚力の低下を思い知る結果になった。
先ほどのシロヤシオの所まで戻って、これらを撮影してから、頂上広場に行くと、地元、四日市からきたという人と話をする。すると、4日前、竜ヶ岳へ行ったところ、シロヤシオが盛りであったとのことであった。そういえば、山を選択するにあたって、シロヤシオのことはスッカリと失念していた。今年は、馬ノ背尾根のアカヤシオも、ここのシロヤシオの何れも盛りには間に合わなかった。そういえば、どういうわけだか木の花には草のそれよりも私には愛着がわかない。
彼との会話は切り上げて、頂上へと向かう。
その前に池のほうへも行っておこうと、便所の前を真っ直ぐに進んでいく。この判断が、結果的によかった。池の土手にハルリンドウが咲いているのを見付けた。もちろん、今度は大喜びで撮影するが、何時ものように接写レンズではなく、ズームレンズでの撮影であった。やはり、腹の底では初物ではないという思いがあったのだろう。
そういえば、冬場にゲレンデになる所にも、この花が咲いていたことを思い出し、頂上へはそこを登っていくことにして、リフトの下を通り抜けてゲレンデへと入っていく。
今度は、この思いは外れ、何も咲いてはいなかった。私の場合、何事も狙って行動を起こすと外れ、無心で動くとたまには奏功するようだ。
この緩やかな斜面を登り上がった先が本頂上だった。
ここには1等三角点があり、その後ろにはその旨を記した大きな看板が祀るように立てられている。しかし、これには少し誤りがあるようだ。
看板には、この三角点のある場所の標高が1211.95米(3916ft)であると書かれている。しかし、地形図から読み取ると1200m強であり、三角点の計測結果は1209.4mとなっている。ということは、看板の数値が間違っているということになる。
では、看板の数値は、何処からきているか。この本頂上から少し離れた所に、望湖台と名付けられたもう1つの頂があり、ここの標高点の値が1212mである。これら2つの数値が錯綜した結果が、この間違った看板になったものと推定できる。
この写真を撮った後、この一角に設けられているあずまや(四阿)に立ち寄る。ここでは既に先客がいて、肉を焼き、ビールを飲み、食事をしていた。私たちも、昔は山頂では焼鳥なり、焼肉なりでパーティを行うのを常としていたが、姫君と2人だけで行くようになると、この習慣も何時しか止めになり、今ではパンなり、おにぎりなりの質素な食事に変わってきた。
大阪から初めて御在所岳にきたという2人連れと山談義をしながら食事を済ます。ちなみに、私の食事はパン2つだけという粗末なもので、彼らとの収入差を如実に表していた。
いくら話をしながらとはいえ、この食事の質の差ではどうしても私のほうが早く終わってしまう。これを機に彼らと別れを告げて、次は望湖台に行ってみる。
御在所岳には幾つもの頂があるが、一番、高い頂がこの望湖台である。一般的に御在所岳の標高1212mというのは、三角点のある本頂上ではなく、ここの高さを用いている。
普段は本頂上に立ち寄ったときでも、この望湖台まで足を伸ばすことは殆どないが、本日は立ち寄る気になった。これは御在所にくるのも後何回もないことが身をもって感じたためだとお思うが、これは家に帰ってから結論付けたこことで、この時点ではもっと軽い気持ちだった。
望湖台には女性2人の先客がいたが、私と入れ違うように彼女らは去り、私が帰ろうとする若い男女がやってきた。本日は、登山者もロープウェイでくる観光客ともに少なく、ここも閑散としていた。
この岩の上に立つと、地獄谷から登ってきたときのことが思い出される。あるとき、ここへ登る場所を少し間違えて岩をよじ登って急にここへ顔を出したことがある。このとき、顔を合わせた人が何かとんでもないものでも見てしまったとでもいうような、何とも奇妙な顔をしていたことが今も忘れずに覚えている。
これで頂上は終わった。
次はこの頂上の隣の広場に行ってみる。ここには石碑があり、北尾根とでもいうか愛知川(神崎川)のほうからの尾根を登り上がってくると、この広場に到着するのだが、この隅にはハルリンドウが群がるように咲いていたことを思い出して立ち寄ってみることにしたが、盛りは既に過ぎたのか、1輪、また1輪とパラパラッと咲いているだけだった。
この広場から降りて頂上周回道路に降り立ったときには、既に12時10分になっていた。アデリアの広場に到着したのが10時45分であったので、頂上に滞在した時間は1時間25分にもなり、何時もよりのんびりしていたことになる。
この後は峠道で武平峠におり、ここから鈴鹿スカイライン沿いというか、これに付かず離れずの昔から登山道を通って駐車場まで帰るだけである。
これを降っていると、指差し岩と呼ばれる岩の所へやってきた。この辺り一帯が岩場になっていて、ここが少し嫌らしい所であった。ここで今朝ほどの姫君との会話を思い出していた。
峠道で降りることを告げると、「危ない所があるから気を付けてよ」と姫君がいう。「峠の手前のザレた所?」と訊き返すと、「違うわよ。岩場の所よ」と姫君が答えた。
この場所を、注意を払いながら慎重に降りながら、この会話を思い出していた。以前は、この程度の岩場は何でもなく、記憶にも残っていなかったが、今はこうして慎重に降りなければ……、1つ間違えば危険も伴うことがあることが切実な事実となっている。
私の記憶に残っていたザレ場は、相変わらず滑り易くはあったが、先ほどの岩場に比べれば何でもない場所であった。
こうして武平峠まで降りれば、後は歩き込まれた大昔からの登山道というか、当時の生活道路である。途中、谷沿いの道が壊れ、付け直しされていた所があったが、それ以外は以前どおりで何も変わる所はなかった。
御在所山の家の手前で、鈴鹿スカイラインに上がり、ここからは車道を歩いて駐車場まで帰り着いた。そのとき、14時10分頃。頂上周回道路沿いの四阿からちょうど2時間を要していた。

御座峰(ござみね・1070m) - 2016.05.14 Sat
狙った花に辛うじて対面を果たす!
7月12日、伊吹山の北尾根を国見峠から御座峰までを歩いた。
この日は朝6時頃、自宅を出発する。
登山口のある旧春日村(現岐阜県揖斐川町)までは何時ものように高速道路は使わずに一般道路を走った。すなわち、自宅のある名古屋から国道22号で一宮へ、ここか愛知および岐阜の県道を使ってで羽島、安八を通って大垣へ、ここから揖斐川に通じる国道417号で池田町経由して旧春日村へという道筋である。
早い時間の出発が奏功したのか、大垣の市内に入ったのは7時頃、出発から1時間後という順調さであった。だが、ここからは道が混み始めて思うようには走れず、登山口の国見峠に着いたときは8時15分であった。
ここへ車で、天気予報のとおり青空であったが、春日村に入って国見岳が見える辺りにきたときには、この辺りだけは白い雲が張り付いていた。『何れは撮れるだろう』との思いと、『こういう場合、山では1日中張り付くこともある』との思いが交錯して、複雑な思いに味わうことになった。
最終の部落を通過すると、昨年までは峠までは道路が開通していなかったことを思い出し、今年もひょっとすると途中で停められるかもしれないという危惧が頭をかすめた。だが、水害に遭ってから既に3年は経過しているので大丈夫だろうと、これを振り払いながらハンドルを握っていた。
昨年、一般車両が停められていた場所にやってきたが、バリケードは置いてはおらず、今年は通られることが分かってひと安心である。ちなみに、この復旧工事は、国の予算で賄われた関係上、これに合わせて何年もかけて行われたらしい。
峠の駐車場に着いたときには、既に名古屋ナンバー2台、岐阜ナンバー2台の先客があった。この駐車場は滋賀県側に位置するが、この手前の岐阜県側の道路脇にも1台が停まっていたが、この花の時期にしては少ないように感じた。
普段履きの靴から登山靴に履き替えると出発の準備は整うが、このとき、辺りはガスに包まれていて肌寒く、カッパを着ることも頭をかすめたが、歩き始めれば暑くなることは分かっているので、多少の寒さは辛抱することにする。

8時25分、歩き始める。
ここから直ぐに尾根に取り付く。最初は土と気の根っこでできた階段状の所を登っていくのだが、ここは段差が大きくてなかなか骨が折れる。
ここでこのコースを簡単に説明しておく。
登山口である国見峠の標高は840mである。これに対して最終の御座峰のそれは1070mであり、単純標高差は僅か230mに過ぎない。この間の距離は3km余であり、これをダラダラと登っていくのであれば楽なものだが、この途中に主だった頂だけでも2つもあり、これを登ったり降りたりする累計標高差は往路が440m、復路が220mの計660mもある。これは伊吹山登山道と比較すれば、7合目までを往復したのに等しい。ちなみに、上野登山道の登山口三之宮神社の標高が415m、7合目のそれが1080mで、標高差は665mである。ここは緩急の差はあるが登り一辺倒であり、単純標高差も累積標高差も殆ど変わらない。
まずは初めに950mの小ピークまでは一気に登り上がっていく。この間、樹林の中で日当たりは悪く昼間でも暗い。本日は濃くはないがガスが出ており、加えて右手の滋賀県側からの風もあるので肌寒い。普通なら汗が噴き出してもおかしくはないが、いっこうに暑くはならない。
この区間にはチゴユリが咲くので、これを探しながら登っていく。所々で白い花を付けたものが見られるが、これらの花も私と同じように寒いのか、花びらをいっぱいに開いているものは見付からず、その何れもがしょんぼりとこうべを垂れているものばかりで、わざわざカメラを取り出して撮るような気も起こらないものばかりである。とはいうものの、これが今年の初見であれば違ったろうが、この花は先の城山(木曽福島)で十分に堪能しているということもあって、このようなぞんざいな扱いになってしまう。
このピークを過ぎると、心もち降ることになるが感覚としては平坦な歩行となる。このような楽ができる所は長くは続かず、直ぐに登りになってしまう。その場所は、何とか上人が時の権力者から逃れて隠れ住んだとの言い伝えのある岩屋へ降る道と国見岳へ登る道との三叉路になっているところだ。ちなみに、昨年までの2、3年は、前述のように国見峠まで車を乗り入れることができなかったので、この岩屋経由で登っていたので、今よりきつい登りを強いられた。
ここから暫くは傾斜もあまりきつくはなく、土の道で歩き易い道で、体力的にも精神的にも楽ができる。だが、植林地のためか、花はスミレとチゴユリがたまに顔をのぞかせるだけの寂しい道行きである。
なお、ここの左手にはKDDIの職員通路の階段が設けられていて、これに沿うような登山道だったが、この会社が撤退したときこの階段を撤去した。以後、暫くはこの道も使うことができたが、今では草が生い茂り、階段道があったことすら窺い知ることはできなくなっている。
標高1050mの辺りから勾配が急になってくる。すると登山道はトラバース気味に尾根芯から大きく外れて緩やかに登るように造られている。ただし、ここからは土の道から岩混じりの道に代わってくるので滑り易く登り辛くなってくる。特に最近、私は脚力が弱ってきているので、こういう道は踏ん張りが利かないのであまり好きではない。
このトラバース道になってくると花が急に増えてくる。最も多く目に付くのはハタザオである。その他にヒトリシズカやハコベの類である。でも、これらは見慣れた花でもあり、わざわざ写すこともないのでそのまま歩き続ける。
この辺りから天気が回復してくる。目の前の霧は薄れてはいるが、まだ完全に取り払われたわけではないが、上空には青空が多くを占め、太陽の光も直接当たるようになっていた。こうなると、何時もは何も感じない平凡な景色も、何だか神秘的なものに見えてきた。頭の片隅で、写真を撮ったら面白いものが得られるかもしれないとの思いもあったが、ザックの中からカメラを撮り出すのも面倒臭いので歩みを停めることはなかった。その後、天気は一時的に悪くなってから回復したが、写真を撮りたいと思った風景はこのときだけだった。こうなってみると、撮っておけばよかった思う反面、私は写真家には向かないことを悟ったものである。
この嫌な岩道のトラバースを終えると、再び、歩き易い土の道に代わり、勾配もほとんどなくなり頂上の一角に立てたことを知る。
この国見岳は2つの頂を持つ双耳峰である。手前の頂上が標高1120mで、以前、ここにKDDIの中継所のあった場所だ。地形図には、この南の頂上に1126mの標高点があることになっているが、これはプリントミスであることは等高線を数えても明らかである。
この一角には、ルイヨウボタン、ニリンソウ、ラショウモンカズラなどなど、これまでに見られなかった花も顔を出すようになり、ここまでくると花の北尾根の面目躍如といったところだ。なお、この一角にヤマシャクヤクが咲いていたが、往路ではこれに気付かず通り過ぎていた。
この北の頂上から200mくらいの所に国見岳がある。この国見岳の頂上の標高は1140m余であるが、先ほどの事情から1126mが国見岳の標高だと誤った定説が一般的に広まっている。

登山口から1時間弱、9時25分のほんの少し(1、2分)前、国見岳に到着する。この頂上には何度となくきているので何の感激もない。立ち止まることなく次へと進む。
国見岳からいったんは110mくらいを降ることになる。というと、大変な大降りであるが、2段構えで緩やかに降るために、これだけ大降りしたとは思えない。
この間、ヤマシャクヤクやヤマトグサが咲くので注意しながら前後左右に視線をやりながら歩いていくが、収穫物といえるものはイチリンソウくらいで、狙った花にはいっこうにお目にかかることはなく、半ば焦りというか、ヤケクソで歩かなくてはならなかった。
また、本日では緩やかとはいえ、降りは初めてである。登りのときは気にはならなかったが、降りになると足元の地面が雨水を含んでぬかるんでいることが気になって仕方がない。何かの拍子で少し気を抜くとズルッと足を持っていかれるので気が抜けない。
こうして苦労して降るが、格別、得るものは何もなく、何時の間にか鞍部に降り立っていた。目の前には登り斜面が控えているが、上のほうは雲で隠れておりどれくらい登るのか実感がわかない。でも、登るしかないとばかりに登り始めると、意外にもアッサリと大禿山(おおはげやま)に着いた。
この山行記を書くにあたって調べてみると、鞍部の標高が1030mに対して頂上のそれが1080mで、標高差は僅か50mであった。弱った脚力とはいえ、この程度ならまだ問題なく登れることを喜んでいる。
10時05分、着いた頂上はゴロゴロした岩の埋まった細長い所であった。
ここは何の特徴もなく、登ったという感激の湧くような頂上でもないので、そのまま、ここは通過した。
ここからは樹木のない裸の尾根を降り、同じような登りをこなすことになるが、登りも降りも似たようなものであった。あらためて地図で確認すると、90mを降って、80mを登り返すというものだった。降りの距離と登りの距離にほとんど差はなく、何れもそれほど苦労することはなかった。
それより、この辺りから天気が良くなってきた。日差しで気が付き、上を仰ぎみると何時しか雲はなくなっており、真っ青な空が広がっていた。
こうなると太陽の光をいっぱいに浴びたウマノアシガタがテカテカと光り輝いていた。
ここを登っていて出会った夫婦から耳寄りな話がもたらされた。次の御座峰の頂上にヤマブキソウが咲いているというものだった。ヤマブキソウは、藤原岳でも御池岳でも見かけていたが、最近では鈴鹿で見かけることは稀有になっていたので、これは朗報であった。
11時、御座峰に到着すると直ぐ、ザックを担いだままで教えてもらった場所に向かう。そこは、キジ場(小便所)だと思っていた所だが、それどころか大のほうまで足してあったのを知らずにザックを置いたのがウンのつき(運の尽き? ウンの付き?)で、大変なことになってしまった。
ここを退散、もう少し先まで行ってみることにする。昨年、そこでヤマシャクヤクを見たので、『夢よ、もう1度』と思ってのことであった。
だが、狙ったヤマシャクヤクは空振りに終わったが、代わりに何ヶ所にも咲くヤマブキソウに出合い、こんなことなら頂上を止めて、こちらへ先にくればよかったと後悔した。
こうして写真の撮影をして頂上に戻る。
ここで昼食を摂り、12時頃、ここを後にする。
登りでは頂上に着くまで1枚も取らなかったので、帰り道では目に付く花を写しながらユックリと戻ることにする。
そして、御座峰と大禿山の鞍部に差し掛かったとき、これからの登りに備えてカメラをザックに仕舞うことにする。
ザックを開けて、最初にカメラを出した場所にカメラを収納するバッグを忘れてきたことに気が付く。
ここからそれを取りに戻るのも大変である。できれば行きたくない。そこで、このバッグの中に何が入っていたかを思い出そうとする。新品のSDカードが入っていることは分かっていた。バッグ自体はそれほど高価なものではなく、SDカードが入っていなければ諦めるつもりであった。その他に入っているものはなかったかと考えたら、ファインダーの倍率を上げるレンズのホルダーが付いていたことを思い出す。
結局、取りに戻ることにして、重い足を引きずりながら御座峰へ引き返し、2度と足を踏み入れたくない頂上のキジ場へ行ってみると、木の枝の上に見覚えのあるバッグが乗っていた。
帰り道では一層の注意を払いながら歩いたところ、ヤマシャクヤクが1輪だけ見付けたほか、先ほどの夫婦に教えてもらったKDDIの跡地のものも見付かった。だが、この夫婦のように10もの花は見付からず、姫君のいないハンディを改めて気付かされた。
以後、フデリンドウが見付かったことくらいが新しい発見で、その他は何も変わることなく14時50分に国見峠の駐車場に帰り着いた。ザックを開けて気が付く。

7月12日、伊吹山の北尾根を国見峠から御座峰までを歩いた。
この日は朝6時頃、自宅を出発する。
登山口のある旧春日村(現岐阜県揖斐川町)までは何時ものように高速道路は使わずに一般道路を走った。すなわち、自宅のある名古屋から国道22号で一宮へ、ここか愛知および岐阜の県道を使ってで羽島、安八を通って大垣へ、ここから揖斐川に通じる国道417号で池田町経由して旧春日村へという道筋である。
早い時間の出発が奏功したのか、大垣の市内に入ったのは7時頃、出発から1時間後という順調さであった。だが、ここからは道が混み始めて思うようには走れず、登山口の国見峠に着いたときは8時15分であった。
ここへ車で、天気予報のとおり青空であったが、春日村に入って国見岳が見える辺りにきたときには、この辺りだけは白い雲が張り付いていた。『何れは撮れるだろう』との思いと、『こういう場合、山では1日中張り付くこともある』との思いが交錯して、複雑な思いに味わうことになった。
最終の部落を通過すると、昨年までは峠までは道路が開通していなかったことを思い出し、今年もひょっとすると途中で停められるかもしれないという危惧が頭をかすめた。だが、水害に遭ってから既に3年は経過しているので大丈夫だろうと、これを振り払いながらハンドルを握っていた。
昨年、一般車両が停められていた場所にやってきたが、バリケードは置いてはおらず、今年は通られることが分かってひと安心である。ちなみに、この復旧工事は、国の予算で賄われた関係上、これに合わせて何年もかけて行われたらしい。
峠の駐車場に着いたときには、既に名古屋ナンバー2台、岐阜ナンバー2台の先客があった。この駐車場は滋賀県側に位置するが、この手前の岐阜県側の道路脇にも1台が停まっていたが、この花の時期にしては少ないように感じた。
普段履きの靴から登山靴に履き替えると出発の準備は整うが、このとき、辺りはガスに包まれていて肌寒く、カッパを着ることも頭をかすめたが、歩き始めれば暑くなることは分かっているので、多少の寒さは辛抱することにする。

8時25分、歩き始める。
ここから直ぐに尾根に取り付く。最初は土と気の根っこでできた階段状の所を登っていくのだが、ここは段差が大きくてなかなか骨が折れる。
ここでこのコースを簡単に説明しておく。
登山口である国見峠の標高は840mである。これに対して最終の御座峰のそれは1070mであり、単純標高差は僅か230mに過ぎない。この間の距離は3km余であり、これをダラダラと登っていくのであれば楽なものだが、この途中に主だった頂だけでも2つもあり、これを登ったり降りたりする累計標高差は往路が440m、復路が220mの計660mもある。これは伊吹山登山道と比較すれば、7合目までを往復したのに等しい。ちなみに、上野登山道の登山口三之宮神社の標高が415m、7合目のそれが1080mで、標高差は665mである。ここは緩急の差はあるが登り一辺倒であり、単純標高差も累積標高差も殆ど変わらない。
まずは初めに950mの小ピークまでは一気に登り上がっていく。この間、樹林の中で日当たりは悪く昼間でも暗い。本日は濃くはないがガスが出ており、加えて右手の滋賀県側からの風もあるので肌寒い。普通なら汗が噴き出してもおかしくはないが、いっこうに暑くはならない。
この区間にはチゴユリが咲くので、これを探しながら登っていく。所々で白い花を付けたものが見られるが、これらの花も私と同じように寒いのか、花びらをいっぱいに開いているものは見付からず、その何れもがしょんぼりとこうべを垂れているものばかりで、わざわざカメラを取り出して撮るような気も起こらないものばかりである。とはいうものの、これが今年の初見であれば違ったろうが、この花は先の城山(木曽福島)で十分に堪能しているということもあって、このようなぞんざいな扱いになってしまう。
このピークを過ぎると、心もち降ることになるが感覚としては平坦な歩行となる。このような楽ができる所は長くは続かず、直ぐに登りになってしまう。その場所は、何とか上人が時の権力者から逃れて隠れ住んだとの言い伝えのある岩屋へ降る道と国見岳へ登る道との三叉路になっているところだ。ちなみに、昨年までの2、3年は、前述のように国見峠まで車を乗り入れることができなかったので、この岩屋経由で登っていたので、今よりきつい登りを強いられた。
ここから暫くは傾斜もあまりきつくはなく、土の道で歩き易い道で、体力的にも精神的にも楽ができる。だが、植林地のためか、花はスミレとチゴユリがたまに顔をのぞかせるだけの寂しい道行きである。
なお、ここの左手にはKDDIの職員通路の階段が設けられていて、これに沿うような登山道だったが、この会社が撤退したときこの階段を撤去した。以後、暫くはこの道も使うことができたが、今では草が生い茂り、階段道があったことすら窺い知ることはできなくなっている。
標高1050mの辺りから勾配が急になってくる。すると登山道はトラバース気味に尾根芯から大きく外れて緩やかに登るように造られている。ただし、ここからは土の道から岩混じりの道に代わってくるので滑り易く登り辛くなってくる。特に最近、私は脚力が弱ってきているので、こういう道は踏ん張りが利かないのであまり好きではない。
このトラバース道になってくると花が急に増えてくる。最も多く目に付くのはハタザオである。その他にヒトリシズカやハコベの類である。でも、これらは見慣れた花でもあり、わざわざ写すこともないのでそのまま歩き続ける。
この辺りから天気が回復してくる。目の前の霧は薄れてはいるが、まだ完全に取り払われたわけではないが、上空には青空が多くを占め、太陽の光も直接当たるようになっていた。こうなると、何時もは何も感じない平凡な景色も、何だか神秘的なものに見えてきた。頭の片隅で、写真を撮ったら面白いものが得られるかもしれないとの思いもあったが、ザックの中からカメラを撮り出すのも面倒臭いので歩みを停めることはなかった。その後、天気は一時的に悪くなってから回復したが、写真を撮りたいと思った風景はこのときだけだった。こうなってみると、撮っておけばよかった思う反面、私は写真家には向かないことを悟ったものである。
この嫌な岩道のトラバースを終えると、再び、歩き易い土の道に代わり、勾配もほとんどなくなり頂上の一角に立てたことを知る。
この国見岳は2つの頂を持つ双耳峰である。手前の頂上が標高1120mで、以前、ここにKDDIの中継所のあった場所だ。地形図には、この南の頂上に1126mの標高点があることになっているが、これはプリントミスであることは等高線を数えても明らかである。
この一角には、ルイヨウボタン、ニリンソウ、ラショウモンカズラなどなど、これまでに見られなかった花も顔を出すようになり、ここまでくると花の北尾根の面目躍如といったところだ。なお、この一角にヤマシャクヤクが咲いていたが、往路ではこれに気付かず通り過ぎていた。
この北の頂上から200mくらいの所に国見岳がある。この国見岳の頂上の標高は1140m余であるが、先ほどの事情から1126mが国見岳の標高だと誤った定説が一般的に広まっている。

登山口から1時間弱、9時25分のほんの少し(1、2分)前、国見岳に到着する。この頂上には何度となくきているので何の感激もない。立ち止まることなく次へと進む。
国見岳からいったんは110mくらいを降ることになる。というと、大変な大降りであるが、2段構えで緩やかに降るために、これだけ大降りしたとは思えない。
この間、ヤマシャクヤクやヤマトグサが咲くので注意しながら前後左右に視線をやりながら歩いていくが、収穫物といえるものはイチリンソウくらいで、狙った花にはいっこうにお目にかかることはなく、半ば焦りというか、ヤケクソで歩かなくてはならなかった。
また、本日では緩やかとはいえ、降りは初めてである。登りのときは気にはならなかったが、降りになると足元の地面が雨水を含んでぬかるんでいることが気になって仕方がない。何かの拍子で少し気を抜くとズルッと足を持っていかれるので気が抜けない。
こうして苦労して降るが、格別、得るものは何もなく、何時の間にか鞍部に降り立っていた。目の前には登り斜面が控えているが、上のほうは雲で隠れておりどれくらい登るのか実感がわかない。でも、登るしかないとばかりに登り始めると、意外にもアッサリと大禿山(おおはげやま)に着いた。
この山行記を書くにあたって調べてみると、鞍部の標高が1030mに対して頂上のそれが1080mで、標高差は僅か50mであった。弱った脚力とはいえ、この程度ならまだ問題なく登れることを喜んでいる。
10時05分、着いた頂上はゴロゴロした岩の埋まった細長い所であった。
ここは何の特徴もなく、登ったという感激の湧くような頂上でもないので、そのまま、ここは通過した。
ここからは樹木のない裸の尾根を降り、同じような登りをこなすことになるが、登りも降りも似たようなものであった。あらためて地図で確認すると、90mを降って、80mを登り返すというものだった。降りの距離と登りの距離にほとんど差はなく、何れもそれほど苦労することはなかった。
それより、この辺りから天気が良くなってきた。日差しで気が付き、上を仰ぎみると何時しか雲はなくなっており、真っ青な空が広がっていた。
こうなると太陽の光をいっぱいに浴びたウマノアシガタがテカテカと光り輝いていた。
ここを登っていて出会った夫婦から耳寄りな話がもたらされた。次の御座峰の頂上にヤマブキソウが咲いているというものだった。ヤマブキソウは、藤原岳でも御池岳でも見かけていたが、最近では鈴鹿で見かけることは稀有になっていたので、これは朗報であった。
11時、御座峰に到着すると直ぐ、ザックを担いだままで教えてもらった場所に向かう。そこは、キジ場(小便所)だと思っていた所だが、それどころか大のほうまで足してあったのを知らずにザックを置いたのがウンのつき(運の尽き? ウンの付き?)で、大変なことになってしまった。
ここを退散、もう少し先まで行ってみることにする。昨年、そこでヤマシャクヤクを見たので、『夢よ、もう1度』と思ってのことであった。
だが、狙ったヤマシャクヤクは空振りに終わったが、代わりに何ヶ所にも咲くヤマブキソウに出合い、こんなことなら頂上を止めて、こちらへ先にくればよかったと後悔した。
こうして写真の撮影をして頂上に戻る。
ここで昼食を摂り、12時頃、ここを後にする。
登りでは頂上に着くまで1枚も取らなかったので、帰り道では目に付く花を写しながらユックリと戻ることにする。
そして、御座峰と大禿山の鞍部に差し掛かったとき、これからの登りに備えてカメラをザックに仕舞うことにする。
ザックを開けて、最初にカメラを出した場所にカメラを収納するバッグを忘れてきたことに気が付く。
ここからそれを取りに戻るのも大変である。できれば行きたくない。そこで、このバッグの中に何が入っていたかを思い出そうとする。新品のSDカードが入っていることは分かっていた。バッグ自体はそれほど高価なものではなく、SDカードが入っていなければ諦めるつもりであった。その他に入っているものはなかったかと考えたら、ファインダーの倍率を上げるレンズのホルダーが付いていたことを思い出す。
結局、取りに戻ることにして、重い足を引きずりながら御座峰へ引き返し、2度と足を踏み入れたくない頂上のキジ場へ行ってみると、木の枝の上に見覚えのあるバッグが乗っていた。
帰り道では一層の注意を払いながら歩いたところ、ヤマシャクヤクが1輪だけ見付けたほか、先ほどの夫婦に教えてもらったKDDIの跡地のものも見付かった。だが、この夫婦のように10もの花は見付からず、姫君のいないハンディを改めて気付かされた。
以後、フデリンドウが見付かったことくらいが新しい発見で、その他は何も変わることなく14時50分に国見峠の駐車場に帰り着いた。ザックを開けて気が付く。

城山史跡の森 - 2016.05.08 Sun
相変わらず花が多く堪能
ゴールデンウィークの遠出は混むことが予測されるため、これを避ける意味で4月22日から1週間くらいの予定で茨城県ならびに千葉県に旅に出る。
この旅の1番の目的は、ひたちなか市にある国立ひたち海浜公園のネモフィラ(花)を見ることにあった。これを見物した後、房総半島をグルッと回って群馬県に住む友人を見舞う。
この後、草津温泉へでも回るつもりであったが、生憎、天気が悪く、ここを中止して帰ることになった。
真っ直ぐ、帰っても面白くないので、予定はしていなかったが、途中、木曽福島で城山史跡の森に立ち寄り、花を求めて散策することになった。
4月29日の朝は、『道の駅・こぶちさわ』で迎える。早朝には青空が顔を覗かせていたが、これは一過性のものだったようで、間もなく、青空は消えて霧雨が降り出す始末であった。このため、午前中に予定していたオキナグサの鑑賞は潔く諦めて、午後から予定していた木曽福島へ向かう。

10時前に木曽福島に到着するが、この頃には天気も回復して暑くもなく、寒くもなしというよい天気に代わっていた。
本日は姫君も久しぶりに一緒に歩くので、できるかぎり身体の負担の少ないルート、何時もとは逆に回ることにする。すなわち、街中の有料駐車場に車を停めて、林道から権現滝に行き、ここから一気に下山するというルートである。
これだと、駐車場と権現滝の標高差230mを水平距離3070mを歩いて登り上がることになり、標高差230mを720mの水平距離で登るよりは比べ物にならないくらい楽ができるという計算もあってのことだ。ちなみに、最高地点までの斜度は、前者が7%、後者が32%ということをみても明らかである。
9時55分頃、駐車場を後にして歩き始める。
だが、このコースは最初のときに1度歩いただけで、コースはうろ覚えである。しかし、ここは街の中で訊く人には事欠かない。通りかかった初老の男性に尋ねると、「興禅寺の角を曲がっていけば……」と直ちに教えてくれる。寺の角を曲がると、記憶が蘇ってきた。あとは、迷うことなく登山道というか、林道というか、どちらを使えばよいかは分からないが、何時ものルートへ入っていくことができた。
林道へ入ると、次から次へと花が現れる。その都度、それをしゃがみ込んで写していくので、遅々として進まない。
でも、困ったことがある。当初は2時間もあれば1周して帰ってこられると軽く考えていたので、昼食を用意していない。
結局、権現滝にきたとき、12時を大きく回り、40分になっていた。私は血糖値を下げる薬を常用しているため、昼食が遅れると体調に異常をきたす恐れがあるので、これが心配だった。でも、幸いなことに異常な症状は現れずに済み、ヤレヤレであった。
行人橋の近くの下山口に到着したとき、13時55分。ここから600mばかり、車道を歩いて駐車場に戻り、大急ぎで車に積んであった食材で、昼食を済ませる。

ゴールデンウィークの遠出は混むことが予測されるため、これを避ける意味で4月22日から1週間くらいの予定で茨城県ならびに千葉県に旅に出る。
この旅の1番の目的は、ひたちなか市にある国立ひたち海浜公園のネモフィラ(花)を見ることにあった。これを見物した後、房総半島をグルッと回って群馬県に住む友人を見舞う。
この後、草津温泉へでも回るつもりであったが、生憎、天気が悪く、ここを中止して帰ることになった。
真っ直ぐ、帰っても面白くないので、予定はしていなかったが、途中、木曽福島で城山史跡の森に立ち寄り、花を求めて散策することになった。
4月29日の朝は、『道の駅・こぶちさわ』で迎える。早朝には青空が顔を覗かせていたが、これは一過性のものだったようで、間もなく、青空は消えて霧雨が降り出す始末であった。このため、午前中に予定していたオキナグサの鑑賞は潔く諦めて、午後から予定していた木曽福島へ向かう。

10時前に木曽福島に到着するが、この頃には天気も回復して暑くもなく、寒くもなしというよい天気に代わっていた。
本日は姫君も久しぶりに一緒に歩くので、できるかぎり身体の負担の少ないルート、何時もとは逆に回ることにする。すなわち、街中の有料駐車場に車を停めて、林道から権現滝に行き、ここから一気に下山するというルートである。
これだと、駐車場と権現滝の標高差230mを水平距離3070mを歩いて登り上がることになり、標高差230mを720mの水平距離で登るよりは比べ物にならないくらい楽ができるという計算もあってのことだ。ちなみに、最高地点までの斜度は、前者が7%、後者が32%ということをみても明らかである。
9時55分頃、駐車場を後にして歩き始める。
だが、このコースは最初のときに1度歩いただけで、コースはうろ覚えである。しかし、ここは街の中で訊く人には事欠かない。通りかかった初老の男性に尋ねると、「興禅寺の角を曲がっていけば……」と直ちに教えてくれる。寺の角を曲がると、記憶が蘇ってきた。あとは、迷うことなく登山道というか、林道というか、どちらを使えばよいかは分からないが、何時ものルートへ入っていくことができた。
林道へ入ると、次から次へと花が現れる。その都度、それをしゃがみ込んで写していくので、遅々として進まない。
でも、困ったことがある。当初は2時間もあれば1周して帰ってこられると軽く考えていたので、昼食を用意していない。
結局、権現滝にきたとき、12時を大きく回り、40分になっていた。私は血糖値を下げる薬を常用しているため、昼食が遅れると体調に異常をきたす恐れがあるので、これが心配だった。でも、幸いなことに異常な症状は現れずに済み、ヤレヤレであった。
行人橋の近くの下山口に到着したとき、13時55分。ここから600mばかり、車道を歩いて駐車場に戻り、大急ぎで車に積んであった食材で、昼食を済ませる。

草木(くさき・830m) - 2016.05.05 Thu
ヤマシャクヤクに対面
4月下旬(23日~29日)に茨城県ならびに千葉県へ旅をしたが、この間、気になっていたことがある。それはヤマシャクヤクの時期を逃してしまうのではないかということだった。
そこで、5月1日は家庭サービスに費やして、翌2日に満を持して、この花が咲くといわれる孫太尾根(藤原岳)にいく予定を組む。
起床後、直ちに朝食を済ませて車に飛び乗ったのが6時30分前。一路、鈴鹿へと車を走らせる。この時間帯だと車も好いているので順調に走ることができ、1時間ちょっとで登山口である北勢町新町の墓地の前の駐車場に到着していた。
この日は月曜日。平日とはいってもゴールデンウィークの最中であるだけに、満車を予想していたが、先客は1台のみ。駐車場はガラガラの状態であった。
本日、早出したのは、この駐車は魏の満車を見越してのことであり、こんな状態が分かっていれば、もう少し遅く出てくればよかったとの思いを抱くと共に、嫌な予感が脳裏をかすめた。それは、『花は既に終わってしまったのではないか』というものだった。
花が終わっていても、いたしかたないこと。とにかく、予定どおりに登ってみることだと萎えそうになる気力を奮い立たせて身支度に取り掛かる。

7時55分、駐車場を後にして新町の上水道施設の横を通り抜けて登山道へと足を踏み入れる。
間もなく、道は尾根に乗る。この尾根は、一見したところではなだらかな登り勾配であるが、最初の内はまだしも、登るにしたがい足への負担がジワッと増してくる。
5分くらい歩くと、炭焼窯の跡を右手に見るが、ここからは勾配は更にきつくなる。以前は真っ直ぐ登り上がっていたが、今では小さなジグザグ道が出来上がっている。このため、以前よりは楽になっているはずだが、これに反比例するように私の脚力が衰えているため、大変さは従前と何ら変わらない苦しい区間である。
ここを必死で登っていると、何時もより暑く感じ、現実にも薄っすらと汗ばんでくる。出発のとき、長袖のスポーツシャツを着るか否かを迷った末、これを羽織って歩き始めたが、こんなに早く体温調整が必要になるとは判断ミスだったと思いながらも『神武神社殿跡』で立ち止まり、上1枚を脱いで半袖のTシャツ姿になる。
ちなみに、ここには神武神社の社殿が建てられ、新町の氏神となっていたらしいが、このような山中では参拝もままならない人が増えたのだろう、何時の頃かは不詳ながら、神社は人里に降ろされたとのことで、現在、この神社があったことを示す小さい石柱が立てられている。現在、藤原岳の主要登山道の1つである大貝戸道(表登山道)の登山口に神武神社がある。これが、ここから移された神武神社だと私は推定しているが、これを否定するような材料も多くあり、異なることも考えられる。
話を元に戻す。ここからも更にきつい傾斜が続くが、しばらくすると孫太尾根に乗って、ここで急勾配からは解消される。この尾根に乗る場所だが、神武西峰(387m)と同東峰(ほぼ同程度の標高)の鞍部である。
ここから藤原岳に至るまでずっとこの尾根が通じており、この尾根を辿っていけば、自然に藤原岳に到達できる。また、この尾根上には顕著なピークが3つある。最初か、ただ今、述べた神武、次が丸山(標高640m強)、3番目が本日の最終目的地である草木(同830m強)、その次が多志田山(同965m)、そして最後が藤原岳(展望の丘・1140m強)という具合だ。ちなみに、藤原岳は、いろいろな頂の総称であり、藤原岳という名前のついた頂はない。これらいくつもある頂のうち、一般的に頂上と思われている、認知されている頂が展望の丘である。
また、横道に脱線したが、孫太尾根に乗ってしまえば、勾配の緩急はあるにはあるが、概して歩き易く、『ここまでくれば……』とホッとする場所でもある。
登山口からここまでは、植林、自然林を問わなければ、ずっと樹林の中であり、尾根に乗ったこの先も暫くは樹林の中を歩くことになる。
暫く歩くと、左手が明るくなり、一段と高い場所に別の尾根があるように見える場所にやってきた。
この尾根に登り上がると、左手は切れ落ちていて、その下には青川が見え、その先には銚子岳の大きな山塊が迫りくるようにせり出している。ここから花が始まるので、楽しくなる場所でもある。
ここまで登り上がる手前で、タニギキョウを見付けたので、尾根に上がってザックの中からカメラを出して、これを片手に空身で降りて行き、見付けておいた花を撮影、上に戻って小さい花2、3種類を写すというミニ撮影会を開催することになる。
ここからはカメラを外に出して、これを片手に目に付いた花を撮影しながら歩くことになるが、小さい地味な花ばかりで、収穫気分を味わうには些か不足であった。
丸山の頂上直下にやってきた。ここからは灌木と岩の道を登り上がるのであるが、何時もとは少し様子が異なっていた。頭上には灌木から伸びた青葉に覆われている。このため、直接に太陽の光を浴びることはなく、この間からこぼれ落ちた光だけを受けることになり、何時もとは大きく様子が違っており、これが丸山へ登る道かと訝しく思うほどであった。
現実でも何時もとは様子が異なる。どうも異なった道を歩いているようだ。だが、足元には明確な踏み跡が認められ、道を間違ったとも思えないのだが、どうも様子がおかしい。とはいっても、上へ、上へと登っていけば何れは丸山に着くので問題はないのだが、何時もとは別の道を歩いている変な感覚を味わうことになる。
あるとき、ふと後ろを振り返ってみると、青川河川敷にあるキャンプ場がハッキリ見てとることができ、違った道を歩いていることがハッキリとした。いつもは、これより東の方を歩いているので、キャンプ場はこの辺りからは見ることがかなわないのだ。
ちなみに、復路でこの道を再確認しようと試みたが、結局、見付け出すことはできずに、トラバースして何時もの道に戻り、降りてきたので、再確認は後日に行うことになった。いずれにしても、日頃登っている道が唯一のものだと思っていたが、もう1本、別の道が多くの人たちによって使われていることが分かり、これは新鮮な驚きでもあった。
丸山の頂上を通過したのは、9時55分頃。登山口を出て、ちょうど2時間だった。
丸山の頂上も頭の上には若葉が覆いかぶさっていて、何時もとは雰囲気が異なっており、先ほどの違った道のこともあって、何度も、何度も辺りを確認していた。
丸山から草木までは、そう何度も歩いているわけではないので、細かいことは忘れてしまっていた。記憶では2、30分で到着したようなフワッとした覚えであるが、これは間違いであった。実際には、1時間10分を要し、草木への到着は11時05分頃であった。
このように時間はかかったが、穏やかな登りであり、所々での花の撮影休憩もあるので、案外、楽にくることができた。
だが、復路では、このような塩梅ではなかった。あそこが痛い、ここが悪いというものではないが、足の疲労は大きなものがあり、特に膝の衰えが顕著なようで、14位時05分、登山口に帰り着いたときにはガクガクになっていた。
このように辛い状態に陥ったものの、収穫は多くのイチリンソウ、綺麗に開いたヤマシャクヤク、予定外のフデリンドウに加えてキンランにもお目に掛られるというオマケまであって充実感があり、体力的な問題を精神的に完全に埋め合わせてくれた山行きであった。

4月下旬(23日~29日)に茨城県ならびに千葉県へ旅をしたが、この間、気になっていたことがある。それはヤマシャクヤクの時期を逃してしまうのではないかということだった。
そこで、5月1日は家庭サービスに費やして、翌2日に満を持して、この花が咲くといわれる孫太尾根(藤原岳)にいく予定を組む。
起床後、直ちに朝食を済ませて車に飛び乗ったのが6時30分前。一路、鈴鹿へと車を走らせる。この時間帯だと車も好いているので順調に走ることができ、1時間ちょっとで登山口である北勢町新町の墓地の前の駐車場に到着していた。
この日は月曜日。平日とはいってもゴールデンウィークの最中であるだけに、満車を予想していたが、先客は1台のみ。駐車場はガラガラの状態であった。
本日、早出したのは、この駐車は魏の満車を見越してのことであり、こんな状態が分かっていれば、もう少し遅く出てくればよかったとの思いを抱くと共に、嫌な予感が脳裏をかすめた。それは、『花は既に終わってしまったのではないか』というものだった。
花が終わっていても、いたしかたないこと。とにかく、予定どおりに登ってみることだと萎えそうになる気力を奮い立たせて身支度に取り掛かる。

7時55分、駐車場を後にして新町の上水道施設の横を通り抜けて登山道へと足を踏み入れる。
間もなく、道は尾根に乗る。この尾根は、一見したところではなだらかな登り勾配であるが、最初の内はまだしも、登るにしたがい足への負担がジワッと増してくる。
5分くらい歩くと、炭焼窯の跡を右手に見るが、ここからは勾配は更にきつくなる。以前は真っ直ぐ登り上がっていたが、今では小さなジグザグ道が出来上がっている。このため、以前よりは楽になっているはずだが、これに反比例するように私の脚力が衰えているため、大変さは従前と何ら変わらない苦しい区間である。
ここを必死で登っていると、何時もより暑く感じ、現実にも薄っすらと汗ばんでくる。出発のとき、長袖のスポーツシャツを着るか否かを迷った末、これを羽織って歩き始めたが、こんなに早く体温調整が必要になるとは判断ミスだったと思いながらも『神武神社殿跡』で立ち止まり、上1枚を脱いで半袖のTシャツ姿になる。
ちなみに、ここには神武神社の社殿が建てられ、新町の氏神となっていたらしいが、このような山中では参拝もままならない人が増えたのだろう、何時の頃かは不詳ながら、神社は人里に降ろされたとのことで、現在、この神社があったことを示す小さい石柱が立てられている。現在、藤原岳の主要登山道の1つである大貝戸道(表登山道)の登山口に神武神社がある。これが、ここから移された神武神社だと私は推定しているが、これを否定するような材料も多くあり、異なることも考えられる。
話を元に戻す。ここからも更にきつい傾斜が続くが、しばらくすると孫太尾根に乗って、ここで急勾配からは解消される。この尾根に乗る場所だが、神武西峰(387m)と同東峰(ほぼ同程度の標高)の鞍部である。
ここから藤原岳に至るまでずっとこの尾根が通じており、この尾根を辿っていけば、自然に藤原岳に到達できる。また、この尾根上には顕著なピークが3つある。最初か、ただ今、述べた神武、次が丸山(標高640m強)、3番目が本日の最終目的地である草木(同830m強)、その次が多志田山(同965m)、そして最後が藤原岳(展望の丘・1140m強)という具合だ。ちなみに、藤原岳は、いろいろな頂の総称であり、藤原岳という名前のついた頂はない。これらいくつもある頂のうち、一般的に頂上と思われている、認知されている頂が展望の丘である。
また、横道に脱線したが、孫太尾根に乗ってしまえば、勾配の緩急はあるにはあるが、概して歩き易く、『ここまでくれば……』とホッとする場所でもある。
登山口からここまでは、植林、自然林を問わなければ、ずっと樹林の中であり、尾根に乗ったこの先も暫くは樹林の中を歩くことになる。
暫く歩くと、左手が明るくなり、一段と高い場所に別の尾根があるように見える場所にやってきた。
この尾根に登り上がると、左手は切れ落ちていて、その下には青川が見え、その先には銚子岳の大きな山塊が迫りくるようにせり出している。ここから花が始まるので、楽しくなる場所でもある。
ここまで登り上がる手前で、タニギキョウを見付けたので、尾根に上がってザックの中からカメラを出して、これを片手に空身で降りて行き、見付けておいた花を撮影、上に戻って小さい花2、3種類を写すというミニ撮影会を開催することになる。
ここからはカメラを外に出して、これを片手に目に付いた花を撮影しながら歩くことになるが、小さい地味な花ばかりで、収穫気分を味わうには些か不足であった。
丸山の頂上直下にやってきた。ここからは灌木と岩の道を登り上がるのであるが、何時もとは少し様子が異なっていた。頭上には灌木から伸びた青葉に覆われている。このため、直接に太陽の光を浴びることはなく、この間からこぼれ落ちた光だけを受けることになり、何時もとは大きく様子が違っており、これが丸山へ登る道かと訝しく思うほどであった。
現実でも何時もとは様子が異なる。どうも異なった道を歩いているようだ。だが、足元には明確な踏み跡が認められ、道を間違ったとも思えないのだが、どうも様子がおかしい。とはいっても、上へ、上へと登っていけば何れは丸山に着くので問題はないのだが、何時もとは別の道を歩いている変な感覚を味わうことになる。
あるとき、ふと後ろを振り返ってみると、青川河川敷にあるキャンプ場がハッキリ見てとることができ、違った道を歩いていることがハッキリとした。いつもは、これより東の方を歩いているので、キャンプ場はこの辺りからは見ることがかなわないのだ。
ちなみに、復路でこの道を再確認しようと試みたが、結局、見付け出すことはできずに、トラバースして何時もの道に戻り、降りてきたので、再確認は後日に行うことになった。いずれにしても、日頃登っている道が唯一のものだと思っていたが、もう1本、別の道が多くの人たちによって使われていることが分かり、これは新鮮な驚きでもあった。
丸山の頂上を通過したのは、9時55分頃。登山口を出て、ちょうど2時間だった。
丸山の頂上も頭の上には若葉が覆いかぶさっていて、何時もとは雰囲気が異なっており、先ほどの違った道のこともあって、何度も、何度も辺りを確認していた。
丸山から草木までは、そう何度も歩いているわけではないので、細かいことは忘れてしまっていた。記憶では2、30分で到着したようなフワッとした覚えであるが、これは間違いであった。実際には、1時間10分を要し、草木への到着は11時05分頃であった。
このように時間はかかったが、穏やかな登りであり、所々での花の撮影休憩もあるので、案外、楽にくることができた。
だが、復路では、このような塩梅ではなかった。あそこが痛い、ここが悪いというものではないが、足の疲労は大きなものがあり、特に膝の衰えが顕著なようで、14位時05分、登山口に帰り着いたときにはガクガクになっていた。
このように辛い状態に陥ったものの、収穫は多くのイチリンソウ、綺麗に開いたヤマシャクヤク、予定外のフデリンドウに加えてキンランにもお目に掛られるというオマケまであって充実感があり、体力的な問題を精神的に完全に埋め合わせてくれた山行きであった。
