topimage

2017-08

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

百名山の思い出・その11 - 2012.04.17 Tue

常念岳(じょうねんたけ・2857m)
 1998年(平成10年)というと、私たちが本格的に登山を初めてから足かけ3年目になる。
 この頃になると、本格的な雪山へも行きたいという願望のような感情がわき上がってくる。そこで、『日本雪山登山ルート集』(山と渓谷社)を買って、私たちでも行ける山はないかなどと研究に余念はなかった。また、これとは別に、山岳雑誌『山と渓谷』97年12月号に雪山初心者向きとして、八ヶ岳の麦草峠から茶臼山、縞枯山を縦走してロープウェイで下山という紹介記事があり、これを春分の日の休日にトレースした。これが2000m級の雪山としては初めての経験だった。
 こうして実績を重ねながら自信を付け、この年の5月の連休には前述のルート集から、燕岳~大天井岳~常念岳~蝶ヶ岳の縦走を選んで実行に移すことにした。
 なお、この年の初めから『ヨレヨレ新聞』を偶数月に隔月(99年からは月刊)で発刊した。この新聞に5月の常念岳行きの山行記も載せているので、これをソックリ転記して、百名山の思い出とする。
 登山実行は、ゴールデンウィークの5月3、4、5日の2泊3日。メンバーは、隊長のクニちゃん、ヒロシちゃん、姫君と私の4名である。
大天井岳から常念小屋へ向かってひたすら歩く
《以下、ヨレヨレ新聞より》
 前日の2日に燕山荘に天候、雪の状態の確認の電話を入れる。
 すると、雪は大丈夫だが、中房温泉までの道が工事中で1日3回、3時間しか通行できないのを知っているかと、逆に問われる。地元タクシー会社に訊くと、中房温泉行きは朝7時から8時までが通行可能な時間帯だということが分かる。これでは、予定していた5時に名古屋出発では間に合わない。途中で起こるかもしれないアクシデントも考慮して、真夜中の1時出発に繰り上げる。ちなみに、この辺り一帯は、1月の大雪で倒木、土砂崩れの被害を蒙り、これ以後、道路は閉鎖されていたものを、地元の強い要望で連休中にかぎって時間を区切って通行できるようにしたとのことである。ちなみに、私たちは、当初、常念岳から蝶ヶ岳を周って三股へ降りる予定であったが、ここの道も通行止めとのことで、常念岳から三俣ではなく、一ノ沢へ降りるように予定を変更した。なお、車をタクシー会社の車庫に預けて、ここからタクシーで中房温泉に向かうことは当初の計画のままで、下山時に迎えに来てもらう場所が変わっただけだ。
 3日は、天気予報がピタリと当たって雨。
 このため、最初からカッパを付けての出発となる。ヒロシちゃんは、御丁寧にも傘までさしている。
 中房温泉の登山口から急登が続き、睡眠不足の身にとってはかなり堪えたが、第1ベンチを過ぎた辺りから身体が慣れたのか、普通の状態に戻ってきた。第2ベンチから第3ベンチの中間くらいの所で、クニちゃんの様子がおかしいのに気付く。尋ねると「足がつるが、大丈夫、行ける」とのことである。クニちゃんはレンジャー部隊の教官を務めたことのある、この道のプロ中のプロだが、偉くなった晩年には身体を動かしていなかったことが原因らしい。いずれにしても、素人の私たちが口を挿む余地はなく、ペースを落として登ることにする。
 第3ベンチを過ぎると、雨は少し小降りになったものの相変わらず降り続いている。これを避けて適当な木の下で昼食を摂ることにする。しかし、カッパの中はグッショリと濡れていて、15分ほど、休憩しているうちに身体は冷え込み、震え上がる。これは私だけのことではなく、他の3名も同じで、鼻水を垂らす者、手袋がはめられないという者、今から思い返すとお笑いであるが、証拠写真は1枚もない。何故ならば、写真を撮るという思考力も働かなければ、また、仮にカメラを構えても指がかじかんでシャッターも押せなかったと思う。このとき、やはりカッパは『ゴアテックス』のものに替えなければと痛切に感じた。これは昨年の槍ヶ岳でも経験していて、この時も同じことを考えていた。にもかかわらず、1年近くが経過した今でも、まだ買い替えずにいる貧乏人根性のあさましさを自嘲していた。
 震えながら、ここを出発して歩き始めて5分が経つか経たないうちに合戦小屋があって、「また、やった」と顔を見合わせて大笑いする。この笑いは、一昨年の剱岳の際、阿曽原小屋から仙人ヒュッテへ向かった折に仙人ヒュッテの直ぐ裏手で休憩したことを思い出したためだった。
 小屋のホットミルクで1息入れ、また登り始めるが、ミルクの効果が出たためか、今までよりは楽になる。
 三角点ベンチでは雨も上がり、雲の合間から大天井岳が顔を覗かせるようになり、燕岳も次第にハッキリとその姿を見せ始める。
 ここから雪道となるが、アイゼンを着けるほどの量ではなく、そのまま山荘の近くまで行く。ここからは山荘まで、ヨレヨレの儀式を執り行いつつ登るが、追従する者は1人たりともおらず、徒労感を感じたが忠実に実行しながら登り上がる。ちなみに、儀式とは、息は絶え絶え、今にも倒れそうになりながら「ハァハァ、ハァハァ、もうダメだ。目が見えない。目の前が真っ暗だ。死ぬ、死ぬ、死じまう」を繰り返しながら頂上まで続けるというものだ。私が、この儀式を執り行うと、姫君を始めメンバーは私とは無関係を装い、距離を置いて付いてくることが多いのが気に食わない。
 燕山荘では、雨を嫌って連泊したパーティーも多いようで混雑していた。このため、私たちは今年になって初めて開けたという真新しい別館のほうを割り当てられる。
 早速、ここの自炊室兼食堂・談話室で、焼肉と酒盛りを始める。すっかりと出来上がった頃、本館に出かけて夕食。別館に戻ってからも酒盛りの続きを行い、早々に就寝する。
 この燕山荘では、主人がホルンの演奏をした後、山の話をしてくれるというもてなしが売り物の1つとなっていた。クニちゃんとヒロシちゃんは、これに参加したとのことだが、この頃、私は白河夜船であった。翌朝、これを聞き、残念なことをしたと思ったが、後の祭りとなってしまう。ちなみに、その後もここに2、3度、泊まったが、ホルンの演奏を聴く機会は1度もなかった。
 翌4日、4時頃には目が覚め、間もなく起き出す。
 もうこの頃には御来光を見るために多くの人たちが外に出てこれを待っている。辺りが白み、様子が分かるようになると、眼下に雲海が広がっているのが分かった。そして、遠くのほうから黄金色に染まり、それがだんだんとこちらに近付いてくると思っていると雲の端から小さい光の点が現れ、これが見るみるうちに上のほうへ昇るとともに小さかった点から輪へと大きくなっていく。このような綺麗な日の出に遭遇したのは、5年前の最初の富士山の8合目で見たとき以来であった。
 この小屋の朝食は早く、5時からである。最初の組で朝食を済ませ、その足で燕岳に登る。
 クニちゃんの体調が回復していなかったときには、中房温泉に降りるつもりでいたが、彼は前日とはうって変わって元気であった。それは足取りにも表われていて、軽やかそのものであった。体調を確かめると、「完全によくなった」とのことだったので、予定どおりに進行させることにした。
 この日は、雲1つない晴天だといっても過言でないくらいの良い天気。まさにクニちゃんの体調のようだった。この好天は終日にわたって続いた。午後から穂高の山だけには雲がかかったが、槍ヶ岳は1日中、その姿を隠すことはなかった。この山は、私たちが歩くに伴い、太ったり痩せたり、形がよくなったり悪くなったりと様々な姿を見せてくれ、その都度、私たちを勇気付け、励まし、楽しませてくれているようでもあった。私たちが歩いた燕岳から切通岩。その先、槍ヶ岳までの喜作新道を総称して北アルプスの表銀座というらしいが、やはりこう呼ばれるだけのことはあると感心、この名を付けた人に思いを馳せた。
 切通岩から大天井岳の直下にある大天荘へは、なだらかな巻き道が付けられているが、ここには3本の雪渓が入り込んでいる。したがって、ここを通過するときは雪崩や滑落などの危険があるとかで積雪時には通行が禁止されている。では、どうするかというと、切通岩から直に大天井岳に登り上がってから小屋まで降るのだそうだ。
 だが、大天井岳へ直接登る斜面には雪はなく、滑り易いザレた地表がむき出しになっているだけで、明確な踏み跡も付いていない。こんな斜面の高低差は250mもあるらしい。必死になって登るが、頂上に着くまでに完全に私のスタミナは底を付いていた。クニちゃんはどんなだろうと、彼の顔を見てみるが何事もないような涼しげな顔だったのには驚くとともに心配して損をしたような気分にさせられた。いずれにしても、訓練を積んだ人は、やはり違うと感心するだけだった。
 頂上では記念写真を撮っただけで、直ちに小屋まで降り、ここで食事を撮ることにし、雪の斜面を尻セードで滑り降りる。
 この小屋は、連休中には泊まり客は取らないが、軽食は営業していると思い込んでいたので、燕山荘では弁当は頼まなかった。仕方がないので、皆が非常食を出し合って粗末な昼食を摂ることになった。でも、弁当を作ってもらったとしてもオニギリくらいなので、よくよく考えてみると似たようなもののはずだ。
 でも、気分は理詰めで考えない。スタミナ切れに栄養不足が重なったという気持ちが強く、午後からの足は重く、これが自分の足かと疑いたくなるほどに足は命令に従わない。
 このとき、一番、元気だったのはヒロシちゃんであった。1人でドンドンと先に進み、雪の斜面では真っ先に尻セードの見本を見せたり、皆が休憩する中、斥候に出かけたりと大活躍であった。
 なお、私たちが尻滑りして雪面にクッキリと付けた跡は、遠く横通岳からも見えていた。これを『ヒロシ新道』と名付けて後世の残そうと思ったが、どうせ今頃は、スッカリと消え失せているだろうことから、これを発表することは止めにした。
 横通岳の裾を通り過ぎ、暫く歩くと、下のほうに常念小屋が見えてきた。だが、ここから先が長くながく感じた。普通なら降りは得意で、こんな場面では駈け降ることが多いが、このときは思うように足が動かず、脚力の限界を感じた。それでも何とか小屋に近付き、何時ものように儀式に取り掛かるが、このときは演技が半分、あとの半分は本音であった。いや、本音が半分以上であった。そして、小屋へ到着したのは、15時30分頃。こうして長い1日が終わった。
 小屋では6畳に8人が詰め込まれた。あてがわれた部屋には既に先客がいた。
 東京のウッちゃん夫妻であった。彼らは、私たちが降る一ノ沢から登ってきて、明日は常念岳から蝶ヶ岳を縦走。次の日に徳沢へ降りるとのことだった。装備を見ると樫柄の年季の入ったピッケルが目に付いた。相当な経験者であると容易に推定が付き、色いろと教えてもらう。話をしていると、もう1組、女連れが到着したが、話の輪には加わらず何処かへ行ってしまい、私が寝つくまで帰ってこなかったので顔も覚えていない。
 この日の酒量は少なかったようで、夜中に1度、目を覚ます。このとき、イビキも聞こえず、静かなものだった。私たちのメンバーは上品なものが揃っていると詰らぬことを考えていたら、いつの間にか、深い眠りに引き込まれたようで、朝まで何も知らずに熟睡する。
 最終日の5日、昨日に勝るとも劣らぬ快晴であった。不信心の私でも、神仏に祈り、感謝の気持ちを伝えたい気持ちにさせられたほどだ。
 早々に朝食を済ませ、空身に近い装備で常念岳に向かう。爽やかなヒンヤリした空気は身体をシャンとさせるとともに心地好さを感じさせる。また、昨日の疲労も完全に抜けているようで足取りも軽い。というものの、足が軽く感じたのはいっときのこと。暫く登ると、息が荒くなり、何時ものように「休もうか」となる。
 高度を上げると、遠く北のほうに端正な3角形の形をした山が見えていた。これが針ノ木岳だとのことだ。また、鹿島槍ヶ岳という山も教えてもらい、心は既に夏に飛んでいた。
 常念岳の頂上は、岩が折り重なっているところは槍ヶ岳に似ていたが、それよりも狭い感じだった。頂上には小さい祠が祀られており、これは槍ヶ岳と同じであった。だが、ここには槍ヶ岳にない方位盤があった。これらの前で記念撮影をしていると、昨夜、同部屋であったウッちゃん夫妻の姿もあった。彼らは蝶ヶ岳へ、私たちは来た道を引き返すために別れる。
 小屋に戻り、下山地にタクシーを呼ぶ手配をして、一ノ沢に降り始める。稜線ではなかった雪が、降りるに従って出てきた。この辺りは傾斜も強いので滑り易く、実際に2度、3度と滑るので、今回、初めてアイゼンを着ける。足元がシッカリすれば、もう問題はない。むしろ、雪があったほうが歩き易く、「ホイ、ホイ」と掛け声をかけながら駈け下りる。
 それでも最後のほうになると何時ものようにバテバテになり、結局、予定より15分遅れの13時45分に一ノ沢に到着する。こうして今回の燕岳から常念岳への縦走を無事に終えることができた。それにしても、本当に楽しい3日間であった。

燕岳頂上

大天井岳頂上

常念岳頂上

(註)個人名は、ヨレヨレ新聞では実名で記してあるが、今回、ネットに載せるにあたりニックネームに改めてある。

● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://yore4040.blog24.fc2.com/tb.php/395-54ea7264
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

2012 山野草・その17 «  | BLOG TOP |  » 百名山の思い出・その10

アクセス数

検索フォーム

最新記事

最新コメント

カテゴリ

登山 (147)
山野草 (417)
雑文 (139)
未分類 (14)
お知らせ (6)
案内 (2)
百名山 (22)
花旅 (75)
旅行 (29)
2014 北の大地花旅 (86)
2016・北海道 (83)
2016・北海道 (1)

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。