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2017-09

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百名山の思い出・その4(前編) - 2012.03.25 Sun

剱岳(つるぎだけ・2999m)前編
 1996年(平成8年)当時、剱岳という名前を聞いたことがあったかもしれないが、それがどのような山であるのかはまるで知らなかった。では、どうしてこの山に登ることになったかというと、これも大台ヶ原山を紹介してくれたハナちゃんの案をそのまま実行したというだけのことだ。
 彼が、大台ヶ原山と剱岳の資料をくれ、どちらも夢のようなコースだから、是非、行くようにと勧められていた。山の知識がないので、この案を丸のみするしか他に方法がなく、ゴールデンウィークに大台ヶ原山に登り、お盆休みに剱岳に登ることに決めたという次第だ。
 今から考えると、何と無謀なことをしたものだと思うが、その時はそうは思わなかった。今になって無知とは恐ろしいものだということが分かってみて、冷静に当時を振り返ると悪寒を感じたほどだった。
 普通、私たちのようなド素人が剣岳に挑戦するなら、室堂から剣岳をピストンするのが一般的だが、ハナちゃんが薦めたコースというのは、欅平から阿曽原小屋、仙人池ヒュッテ、剱山荘を泊まり継いで剱岳に登り、室堂に降るというものだった。仮に、このコースを歩くのでも室堂から剱岳に登ってから剱沢を降って仙人池ヒュッテという逆回りが普通である。このため、ガイドブックをみても、どれも欅平から登り上がるというコースを紹介するものはない。このため、読むと登りと降りが逆になるので、これを頭の中で逆をイメージするという作業をしなくてはならず、コースを理解するのに手間取ることになった。
 メンバーを募ると、姫君と私の他にヒロシちゃんとアンちゃんの4名。何れも大台ヶ原山の参加者だった。
 前回同様、このときも詳細な計画表を作成して、これを近畿日本ツーリスト社に持参してクーポン券の手続きをしてもらう。
 すると、3つの山小屋は、クーポン券作成に協力はせず、「当日、現金を支払ってくれ」とのことで、大台ヶ原山のときとは少し事情が異なっていた。私たちは、当時は完全な旅行感覚だったので奇異に感じたが、現在は私たちも山行きの感覚が身に付いているので、これがズレていたことが理解できる。
 もう1つは、私の積算した費用総額と旅行社のそれに若干の差異があった。旅行社の請求のほうが高かったのだ。細目を検討したところ、名古屋から京都間の新幹線運賃と京都から富山までの運賃が異なることが判明した。原因は、新幹線で京都まで行くときと京都から湖西線で富山に行くとき、同じ線路を通るが、この区間は片道の運賃でよいところ、旅行社は往復で計算したという些細なことであった。この指摘がきいたのか、手数料の請求はなかった。
 こうして準備万端が整い、96年8月11日から14日までの3泊4日の剱岳行きが決行となる。ちなみに、出発は、8月10日22時42分のひかり283号だったので、正確にいえば4泊5日、うち1泊は車中泊ということになる。なにゆえ、こんな正確なことが分かるかというと、当時、作成した計画表が残っていたためだ。
 11日の7時頃、宇奈月温泉に到着。30分くらいの時間待ちでトロッコ電車に乗り、9時頃、終点の欅平に到着する。
 これからがいよいよ剱岳までの長いながい山旅が始まる。未知なる旅の幕開きで、不安と期待が複雑に交錯していたが、天気だけは穏やかな晴天であった。
 欅平から黒4ダム建設資材運搬のために造られた水平道を歩くことになるが、この水平道まではジグザグの急登が待っていた。これが長旅の初めになるので、皆が意気込んでいた。凄いペースで水平道まで登ったが、私にとってはこれがオーバーペースだったようで、これでスッカリ体調を崩し、これから先、苦しい歩きを強いられた。途中でリタイアを考えたが、最初からこれを申し出てもメンバーの士気を削ぐ結果になりかねないので、阿曽原小屋までは何とか皆に付いて行き、ここで1夜を過ごして明日になったら私1人で欅平に戻ることを頭の中で思い描いていた。
 途中、こんなこともあった。水平道を歩いていると、突如、道が消えてしまった。『しまった。道を間違えた』と思って引き返してみたが、間違えたわけではなく、正しい道を歩いてきたことだけは確かなことが分かった。辺りを観察すると谷の向こうに道があることは分かるが、そこまで行く方法が分からない。そのとき、追い付いてきたグループがあり、彼らも戸惑ったが、目の前の谷を埋めた雪の上を渡って向こう岸まで行くといい、雪の上を渡り始めた。私たちも、これに倣ったことはいうまでもない。この場面は、道は逆U字型になっていたが、U字の底の部分が雪で埋まっていたということだった。これをショートカットしたというだけのことだが、初めてのことで道から外れて雪の上を歩くという発想は浮かばなかったのだ。
 また、こんなこともあった。ここも、やはり逆U字の道で、底の部分がトンネルになっていた。計画表ではトンネルがあるので懐中電灯を持参するように注意してあったが、ヒロシちゃんもアンちゃんも懐中電灯を持ってきていなかった。姫君と私のヘッドランプで照らすが、暗くて辺りがはっきりせず、ただ水の流れる音だけが響き、何だか、川の中を歩いているような錯覚に捉われた。トンネルを抜けて真っ先に靴がどれだけ濡れているかを確認したが、全然、濡れていなかった。流れは、精々、1cmか、2cmといった程度だったようだが、こんなことも初めての経験で驚くことばかりだった。
 疲労困憊、ヘトヘトになったが、小屋が近付いてきたことが分かってからも試練は待っていた。道が崩れてしまっていて、1度、谷底へ降りてから、再び、登り上がる急ごしらえの道が造られていたことだ。この最後の部分が地獄の苦しみを味わされることになった。
 こうして、やっとのことで阿曽原小屋に到着したが、労ってくれる主人に応えるには息が上がっていて、言葉にならない声をハァハァゼイゼイといわせるだけだった。
 この小屋には温泉が付いていることが分かっていたので楽しみにしていた。だが、その温泉があるのは谷底なので、いったん谷底まで降り、帰りには谷底から登り上がらなければならない。往きはまだよいものの、帰りは登りになるので大変な労力を要することが分かり喜びも半分になってしまう。でも、大きな木製の露天風呂で、なかなか気持ちが良く、帰りがなかったら何度でも入りたいような風呂だった。ヒロシちゃんは、翌朝にも入りに行くが、帰りのことを考えると私は遠慮した。
 ここで、1夜、ぐっすりと眠ると疲れはだいぶ取れたため、皆について行くことを決心した。
 小屋の主人によると、この年は異常ともいえるほど雪の多い年で、ここから先の道が開いたのはお盆の直前だったとのことだった。そんなことをいわれても何も分からないし、イメージするような経験も積んでいない。
 道が開いたといっても、何時も登山者の通るガイドブックに書いてあるコースではなく、谷の中の雪渓を辿る道らしい。これを主人が略図を書いて説明してくれるが、半分も理解することができなかった。
 阿曽原峠に登り上がるまでは雪はなかったが、ここからは仙人谷に下りて雪渓の上を歩くことになる。これはこれでよいのだが、困ったことがある。支沢が入り込んでいる所で、踏み跡がハッキリしないとどちらへ行くのか分からなくなるからだ。途中で1度、道を間違えるという失敗を犯すが、このときは下のほうに登山者の姿を見付けて、間違いに気付いて事なきを得る。
 また、この日、楽しみにしていたことがあった。途中にある仙人温泉にノンビリと浸かることだ。この温泉は、夏道沿いにあるので、ただ今、歩いている谷の中から上に登り上がらなければならないし、第一、湯が引き込まれているか否かも分からないのでパスしたのはいうまでもない。この温泉の源泉が歩いている仙人谷の中にあったので、この直ぐ脇を通った。この源泉では、もうもうと白い湯気を吹きだしていたので、これを横目に恨めしく思いながら、くたびれた足を引きずって通り過ぎたことを今でも思い出す。
 ハッキリした記憶はないが、仙人谷に入ってからは直ぐにアイゼンを付けたと思われる。このアイゼンは、登山靴の踵の前部分のみに4本の爪が出ている簡便なもの、いわゆる雪渓用の軽アイゼンだ。これを手当てするのにも苦労した。当時は、IBS石井スポーツとか駅前アルプスという登山専門店の存在は知らなかった。富士登山の際、用具をそろえた名古屋駅前の好日山荘は既になくなっていた。仕方がないので、アルペンとかヒマラヤといったスポーツ店に出かけたがアイゼンというような専門性の高い用具は置いてなかった。小さな山専門店(CBC横)を見付けて訪れるが夏にアイゼンなどはシーズンオフなので置いていなかった。困った挙句、今池にあった小さな山屋を見付けて店の中へ入ったところ、この在庫があってヤレヤレと胸を撫で下ろすことになった。このようにアイゼン1つを入手するだけでも、知識がないとこのように手間がかかるものだということを嫌というほど知らされることになった。
 こんな具合で、長いながい雪渓歩きも終わりになり、雪渓から地道に上がる。
 ここで一服しようということになり、狭い道の両端に座りこんでタバコを吸い始めた。ちなみに、この頃は今と違って喫煙が大手を振ってまかり通っていた時代ということもあって、メンバー全員が喫煙を楽しんでいた。
 すると、何処かから人声が聞こえてきた。「誰か、近付いてきたようだ」と言い合うが、誰もやってこない。空耳がと思い、休憩を終えてザックを担ぎ上げる。そして、歩き始め、最初の角を曲がると、目の前に仙人池ヒュッテが見えていた。休憩していたのが小屋の後ろだと分かってみれば、何も、あんな場所で休憩を……、と顔を見合わせて大笑いした。なお、先ほどの人声は、この小屋から聞こえてきたものだった。
 小屋で出迎えてくれたのは、名物女将と朴訥な感じの主人と息子と家族総出であった。前夜の阿曽原小屋で、仙人池小屋がよいか、仙人池ヒュッテがよいかを問うたところ、ヒュッテのほうのおかずが美味しいという人が多いという返事だったので、改めてヒュッテに決めておいてよかったと思ったものだった。
 だが、この評判の良いというおかずも満足に食べられないアクシデントが発生した。それは、こんな具合で起こった。
 部屋は、4名で1部屋をあてがわれた。部屋に落ち着くとほぼ同時に風呂を薦められる。小さな五右衛門風呂風な粗末なものだったが、歩き疲れた身体には何にも増して嬉しいもてなしだった。風呂から上がって、部屋でビール500mlを一気に飲んだところ、全部を飲みきらないうちにゲップが出て、飲むのを中断させられる。これだけでは治まらなかった。これ以後、シャックリが断続的に起こるようになる。食事をしていても、これが治まらず、とても食事を続けられるような体調ではなかった。これは寝てからも続き、息を詰めるようにするが、一晩中、治まることはなかった。メンバーに迷惑をかけただろうことは言わずもがなであるが、誰も文句を言わなかった。 (以後、後編に続く)

いつもは歩かない仙人谷の中を登る

予定表Ⅰ

予定表Ⅱ

● COMMENT ●

驚きました

 三太夫さん、こんばんは。
 16年前の剱岳山行を読ませていただきました。剱岳に登るのに、欅平から阿曽原温泉を経て、剱沢に入るとは驚きました。三太夫さんも書かれているとおり、裏剱だけでの山行(剱岳には登らない)だけでも、なかなかハードなものなので、これと同時に剱岳にも登ってしまうとはびっくりです。
でも、このコースを歩くのであれば、やはり逆コースの方がよいと思います。体力のいる剱岳登山を先にやってしまうことですね。

 当時と違うのは、仙人温泉-仙人ダムの間のルートですね。当時は仙人谷に登山道があったそうですが、2007年から雲切新道という尾根にルートが付けかえられています。これがまた急な坂になっていて、ロープやはしごがたくさんあったと思います。この新道を登るのはかなりしんどいことでしょうね(下った方が楽です)。

 kitayama-walk さん、おはようございます。
 早速、お読みいただき、ありがとうございます。
 仰せののとおり、この計画は、当時の私たちにしては無理だったことは確かです。途中で立ち往生して遭難ということにならなかっただけでも幸いだったと思っております。この山行きを終えて、このコースを推薦してくれた人に報告にいったところ、「剱も登ったの? 僕はここを素通りすると思っていました」と驚いていました。
 それから、kitayama-walk さんがこのルートを歩かれたことを思い出して、あなたのレポートを改めて読み返したところ、仙人ダムの辺り、トロッコの軌道内を歩く写真を見て、夏道にもこんな所はないはずだったがと不思議に思っておりました。新しい道が付けられたことをお教えいただき、合点がいきました。


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