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2017-11

葬儀の感想 - 2011.07.22 Fri

 先日、姫君の学友が急逝、私も知った人でもあり、通夜と葬儀に姫のお供を兼ねて列席した。
 この葬儀は曹洞宗の様式に則って執り行われたが、浄土宗の葬儀に慣れた私にとっては目新しいことも多くて新鮮に映った。
 まず、通夜の席で驚いた。
 私が見慣れた通夜式は、僧侶が読経をし、この最中に喪主始め親族が焼香、続いて一般参列者が焼香するというものである。これ以外の通夜に立ち会ったことはないので、今回も当然、このような手順を踏むものとばかり思っていたが、今回は違っていた。どこが違っていたかというと、読経がほとんど行われなかったことだ。経文だと思われるフレーズが、中に含まれることはあったが、こんなことは例外的であった。
 では、僧侶が何をしたかというと、日本語で何かを唱えていた。日本語だと言っても、私たちが日常的に話す言葉ではなく、文語体の書き物を読むような感じであった。似ているものを探すと、神主が読み上げる祝詞(のりと)がある。祝詞も、耳をそばだてていると、その一部は何をいっているか分かる部分もあるが、大半の件(くだり)は分からない。今回、僧侶が唱えた言葉は、これと似ていて、日本語であることは分かるが、意味については理解できなかった。
 葬儀では、経文を唱える時間は通夜より大幅に増えたことは確かだが、日本語部分も多く、直感的に判断すると経文4に対して日本語6くらいではなかったかとの印象であった。
 07年8月6日付の『お盆とお経』の中でも述べたが、私は、お経なるものは意味不明の詰らないものだと思っている。したがって、何の価値もないものを尤もらしく長時間にわたって読まれることに辟易としていて、何か他の手段を考える必要があると思っていた。でも、何百年にわたって培われたお経文化が一朝一夕に変えられるものでもないことも分かっていた。
 でも、こうして一部宗派の一部僧侶の中にも、意味不明の経文の価値に疑問を持ち、これに変わるものを模索していることを知り、宗教界を再認識した。
 これを更に進めて、耳慣れない文語体ではなく、意味の分かる口語体で書き、それで死者を送る餞(はなむけ)にしたらどんなものだろう。
 いずれにしても、今回の通夜、葬儀は、形式的に経文を唱えて終わりというこれまでの無味乾燥の儀式より、よほど温かみのあるものだったと感じたのは私だけであろうか。

キバナノアツモリソウ

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