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2012-03

百名山の思い出・その6 - 2012.03.31 Sat

槍ヶ岳(やりがたけ・3180m)
 『ヨレヨレ山歩会・名古屋』を結成した当初、私たちがアルプスなどの遠くの山へ行くことができるのは、7月の海の日がらみの連休と8月のお盆休みくらいにかぎられていた。
 1997年(平成9年)の7月には、ハナちゃんの企画に乗っかる形で、2泊3日で北アルプスの双六岳と三俣蓮華岳の縦走を行った。前年の剱岳とこの双六・三俣蓮華岳の2回のアルプス遠征で、アルプスを歩く魅力に取り付かれ、スッカリとハマってしまった。
 そして、「お盆は何処へ行こうか?」と相談の結果、私のリクエストで槍ヶ岳と決まる。当時の私の知識では、槍ヶ岳というのは鋭く尖った頂上を有する恰好の良い姿をした山ということくらいで、正確には何処にあるかも知らなかった。
 これに関して面白い逸話がある。私にとっては恥ずかしい話であるので大きい声では言えないが……。
 相談をしている際、槍ヶ岳は上高地から入るのが一般的で、若かりし頃のヒロシちゃんもここから登っているとのことだった。「上高地まではどう行けばよいか」との私の問いに、「松本から少し北のほうへ入るのだ……」とのヒロシちゃんの答え。これを聞いた私は、「松本に近いの? 東京に近いのじゃぁないの?」と納得できなかった。私は、上高地と軽井沢と混同していたのだ。お粗末の一語に尽きる話で恥ずかしい限りだ。
 この話し合いの過程で、登山経験のあるヒロシちゃんが、企画立案ならびに隊長を務めることになった。
 数日後、ヒロシちゃんから示された計画は、小さいメモ用紙1枚に簡単に書かれていた。『名古屋出発に上高地出発の各時刻。1日目の宿泊は槍沢ロッジ。2日目に槍ヶ岳に登頂して殺生ヒュッテに泊まり、最終日に一気に下山して上高地に戻り、車に乗り換えて名古屋まで戻る』というものだった。
 実行日は、97年8月11日から13日の2泊3日の予定である。ちなみに、出発は10日の夜遅く(詳細な時間は未定)である。
 メンバーを募ると、ヒロシちゃん、姫君に私の富士山参加者のほか、もう1人、タケちゃんが加わった。ちなみに、タケちゃんは、大台ヶ原山に参加している。
 最初の頃、剱岳までは、登山も旅行の延長だと思っていたのが、2回の遠征や鈴鹿の山で出会う人との会話で学習した効果が出てきたのか、登山は物見遊山の旅行とは異なることが分かってきて、前回の双六・三俣蓮華岳から自分たちで車を運転して登山口まで行って目的を達成するという具合に、多少、登山者らしくなってきた。
 こうなると困った問題が出てきた。姫君が、スナックを経営しているので、これが終わるのが深夜になる。したがって、出発は閉店後と遅くなるために、登山口での仮眠に充分な時間が採れないということだ。それでも、山へ行きたい気持ちが、睡眠時間が少なくなる実害よりも勝ったようで、こんなスタイルの山行きがずっと続くことになった。
 この槍ヶ岳行きでも、夜中に出発して中津川まで中央自動車道、ここから薮原まで国道19号、薮原から沢渡(さわんど)までを一般国道と走り継いだ。この当時、私は夜の車の運転はしたことがなかった。このため、暗い道を恐るおそる運転しなくてはならず、加えて眠気も襲ってくるので大変な思いを味わいながら走る役目を担わされた。このときも、ダムの辺りは曲がりくねった細い道で、特にトンネルの中は狭く、対向車が来たらどうしようかと心細く、気が気でなかったことを覚えている。でも、こんな道は山へ行けば、何処でも同じようなもので、何回も走っていると慣れてもくる。このためか、今では、このような道でもそれほど怖いとは思わなくなっている。
 真夜中というか、未明という時間だったかは分からないが、沢渡駐車場に到着する。
 昔は登山口の上高地まで一般車両が乗り入れることができた。その後、自然保護を口実に釜トンネルから先を一般車両乗り入れ禁止とした。これに伴い、その手前の沢渡に大駐車場が造られ、ここからはバスかタクシーで上高地まで入るようになっていたため、ここでの駐車を余儀なくされたというわけだ。そして、車中での短い仮眠を採る。
 8月11日、夜明けとともに起き出し、用意してあった弁当を食べ、バスに乗ったか、タクシーだったかは判然としないが上高地に向かった。ちなみに、姫君の記憶ではライトバンのような車に乗ったとの記憶があるとのことだが、タクシーならライトバンということはあり得ないので、彼女も記憶が混濁しているようだ。このとき、既に雨が降っていたが、中止するつもりはなかったようで、そのまま出発している。
 上高地へ着くが、相変わらず小雨が降っていた。このため、カッパを着ての出発となったが、ほどなく、雨は止んだので、カッパはそれほど長い時間を着用したわけではなかった。でも、写真を見てみるとガスが低く立ち込めた生憎の天気で、景色などは何も見えなかったようだ。
 何回も小刻みに休憩を採り入れて歩いたが、私の記憶は何も残っていない。多分、当時はいつもそうであったように死にそうになりながら歩いていたのだろう。そんな不名誉なことは早く忘れてしまいたいという防御本能が働いて記憶をなくしたものと思う。
 槍沢ヒュッテには明るいうちに着いたことは確かだが、記憶はまるでない。よほどのダメージを受けていたようだ。姫君の記憶では、小屋は1畳に2人が寝るというくらいに大混雑したというが、私には記憶はない。また、ここには風呂があったらしいが、私が入ったか否かは定かでない。
 8月12日、朝起きてみるとザァザァという雨音が部屋の中にいても聞こえるくらいの大雨であった。私は帰ることを考えていたが、隊長のヒロシちゃんはそんな素振りは露ほども示さず、「しばらく、様子を見よう」と泰然と構えていた。何時頃だったかは忘れたが、雨が小降りになった頃、「出発」の号令がかかり、小雨の中を歩き始める。
 今から考えると、『大曲り』を過ぎた辺りで休憩したときのことだ。大曲り辺りから急勾配に変わり、息は絶え絶え、汗をいっぱいにかきながら登っていた。しばらくして「休憩」の恵みの声がかかる。道端に腰をかけて休むが、身体の中を汗が流れ落ちるのが分かるほどだった。こうして何分だかの休憩を終えたときには完全に冷えていて震えが来るほど寒かった。このとき、見ず知らずの下山者がやってきた。「寒いですね」という会話を交わしたのだろう。すると、件(くだん)の下山者は「私のカッパは、ゴアテックス(たぶん、こう言ったのだろう)で通気性があるので、蒸れることはない」という意味のことをいった。当時、私も姫君のきているカッパは、裏がゴム引きのものだった。このときの寒さが忘れられず、買ってから何回も着ていないので「もったいない」と思いつつも、この後、ゴアテックスのカッパに買い替えている。
 小屋が見え始めた。この小屋が、本日、泊まる予定の殺生ヒュッテだ。ここに立ち寄り、荷物を降ろして空身で槍ヶ岳に登るのだという。ここで荷物から解放されて、ホッとひと息つくことができた。今から考えれば、小屋泊まりなら荷物といっても空身同然だったが、それでも当時は負担になっていたのだ。今から思うと隔世の感がする。
 登山道に戻り、胸突き八丁ともいえる急勾配をジグザグに登って行く。当然、私は直ぐにヨレヨレになっていたと思われる。その私たちが、1人の登山者を追い抜いた。これは画期的なことで、当時としては記録に残る快挙だ。追い抜いた登山者はテント泊だとひと目で分かる大きな荷物を担いでいた。「槍ヶ岳のテント場は30張りという制約があるので、少しでも早く、12時までに着かないとあぶれてしまう」と彼は語っていた。
 お盆休みの槍ヶ岳の肩のテント場は、30張り限定であり、これを過ぎると下の殺生小屋のテント場に追いやられるというので有名だったようだ。でも、近年は登山者が減っているのか、登山者そのものは減っていないがテント泊まりをする人が減っているのか、数年前、ここのテント場はガラガラであった。
 閑話休題。ようようのことで槍ヶ岳山荘に到着する。人間の頭のてっぺんが槍ヶ岳の頂上とすると、この山荘の建つ標高3080mのここは人間の肩に相当するので、『槍の肩』と呼ばれている。このときには何とも思わなかったが、これが私にとっても、姫君にとっても、富士山以外、、アルプスで初めて立った3000m以上の場所ということになる。
 既に、雨は止んでいるが、ガスが激しく行き来していて、槍の穂先は、一瞬、見えたと思うと、直ぐに隠れるという状態を繰り返していた。このため、直ぐに「登れ」という号令は出ないので、小屋の前で暫く休憩を兼ねて様子見していた。
 このとき、先ほど追い抜いてきた登山者が私たちの傍にやってきて、手に持った木札を指し示しつつ「間に合いました。これが鑑札(?)です」という意味のことを満面の笑みを浮かべた顔で報告した。先ほどの情けない顔とはうって変わり、満足感と自信にあふれた顔に見えた。
 ここから見え隠れする槍の穂先には、登山者が列をなして張り付いていた。この距離では動きまでは分からないのが、それは正しく蟻の行列を遠くから眺めているようだ。これを見ていて感じたことがある。彼らが着用する色とりどりのカッパのうち、一番、目立つのは黄色だということだ。ということは、遭難したとき、救助者の目に付き易い色は黄色ということになる。このように学習したからには実践しなくては意味がないと思って、以後、カッパを購入するときは黄色に決めている。
 いよいよ私たちも登ることになり、私たちも蟻の1員に加わったわけだ。最初のうちは良かったが、だんだんと厳しい場面が出てきて、最後は垂直の梯子が待っていた。とにかく登山者が多いので、時間は動いているよりも待っているのに費やされることが多い感じなので、疲れるということはない。しかし、その分、恐怖を味わう時間が長いことになる。
 頂上に着いてみると、狭いそこは登山者であふれ返っていて、身動きするのにも苦労するくらいであった。奥の方に社があるが、そこまで辿り着こうとしても容易でもない。このとき、三角点の石柱が目に止まったので、これ幸いとばかり、社の前へ行くのを断念した。
 そして、下山することになるが、登山者が梯子から離れずにいるので、下山者は梯子を使えない。ちなみに、今は2本の梯子が架けられていて、登り降り各々専用に使っているが、この当時は1本の梯子しか架かっていなかった。下山者はどうしたかというと、頂上、梯子から少し離れたやや緩やかな岩の斜面を降りていた。こんなことは初めての経験だったので、味わった恐怖感というのは相当なものだった。何とか、無事に降りることができたが、精神的なダメージは深刻なもので、胃が痛むほどだった。
 こんな情けない状態だったが、とにかく、目的は達成した。
 この思いは誰でもが同じであったとみえ、全員、テンションが上がっていた。特に、いつもは冷静で感情を表に出すことのないタケちゃんも、「念願の槍ヶ岳に登ることができた」と大喜びで、何枚も何枚も記念写真を撮っていた。
 さて、殺生ヒュッテまで降りる段になり、何処から降りようかということになる。隊長のヒロシちゃんが決めたルートは、東鎌尾根を辿るルートだ。
 現在、東鎌尾根に乗るには、いったん、槍沢ルートで少し降ってから、ここから分かれて尾根へ登り上がるような道になっているが、当時は槍の穂先の基部を巻くように水平移動する道が付いていた。この道が岩崩れで使えなくなり、今のルートが造られたという経緯がある。このため、今では見ることのできない変わった形というか、グロテスクな形をした槍の穂先を写真に収めていた。
 こうして、ユックリと殺生ヒュッテまで帰ったが、私の受けたダメージは大きく、夕食も満足に食べることができなかった。
 8月13日、曇り空ではあったが、雨は降ってはおらず、今回では天気がよい部類だった。
 朝食を終えて、上高地に向かって歩き始める。降りで登りに比べれば楽ではあるが、何分、ひ弱な足である。7時間かかったか、8時間かかったか、はたまた、もっと時間がかかったかは今となっては分からないが、ヘトヘトになって何とか上高地へ帰ってきた。このとき、上空には青空が見えるくらいに天気は回復していた。この天気は、肉体および精神的にボロボロになった私たちだったが、達成感だけは充分に満たされて晴れがましい私たちの気持ちを表しているようでもあった。
 なお、この恐怖の体験で、金輪際、槍ヶ岳にはいかないと誓っていたが、それから数年後、再訪することになった。このときは、頂上までは登らずに肩の小屋で待つことにしていたが、ここまで行くと勢いで頂上まで登ることになった。結果は恐怖を感じるような箇所はなく、前回は何故、あんなに怖かったか不思議に感じたくらいだった。これ以後、毎年のように、多いときには年に3回も登ったことがあるくらいだった。こうして、アルプスで最も好きな山となったのが、この槍ヶ岳であった。

槍ヶ岳山荘前から槍の穂先に群がる登山者を眺む

混雑する槍ヶ岳頂上で三角点の標石に手を置く

端正な槍の穂先も場所によってはグロテスクに見ゆ

東鎌尾根での記念撮影、後ろは常念岳

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