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2017-10

百名山の思い出・その18(後編) - 2013.05.11 Sat

鳳凰山 (ほうおうさん・2840m)
 1999年10月11日、鳳凰山登山の2日目の朝は、鳳凰小屋で迎える。
 5時30分頃、目覚めたが、何時ものような爽やかな目覚めではない。何んだか、身体の中がダラッとしている。隣のテントの連中が3時頃に発ったため、ザワついて充分な睡眠が取れなかったのか、昨日のハードな歩きの疲れが取れていないか、何れかは判然としないが、今は何もやりたくない。
 ノロノロと後片付けやテントの撤収をしていたら、早々と6時30分を回ってしまっていた。これから食事の支度をしていたら遅れるばかりだと思い、朝食は稜線に上がってから適当な場所でしようということになり、ここを出発する。
 7時05分、鳳凰小屋を出発、鳳凰三山の1つである地蔵岳に向かう。
 小屋の横から山に取り付くが、最初から樹林の中の急登に泣かされる。林の中ほどで、先行していた女性に追い付く。昨日、彼女とは知り合っているので顔見知りで、地蔵岳から白鳳峠経由で広河原へ降りることは聞き及んでいる。ここから暫くは彼女と一緒に歩くことになる。
 林が疎らになり、前方に地蔵岳の頂上部分を形成する岩峰、オベリスクが見えるようになる。『おっ、あれかがオベリスクか』と思いながら真っ直ぐに進んでいると、後ろから声が聞こえる。「こっちへ渡るのだそうよ」と、姫君の声だ。姫君も同道している彼女もガレた沢状の所を渡り、左側の林に移っていた。そのほうへ移動しようとするが、今、いる場所からそこまでは高低差が大きくて降りられない。止む得ず、少し戻って2人のいる所まで追い付く。そこはお花畑と呼ばれている場所だとのことだが、シーズンオフの現在では花は咲いていなかった。
 ここを過ぎると、一面、草木の1本もない風化した花崗岩のザレ、ちょうど甲斐駒ケ岳の頂上の付近に似ているが、こちらのほうが風化の度合いが進んでいる。この滑り易い急勾配の斜面をジグザグに登り上がっていくのであるが、歩けども、歩けどもオベリスクとの距離は縮まらない。ここに取り付いたときにはひと息で登れると思ったが、なにがなにが、途中で2度ほど休憩をしなくてはならなかった。
 それでも、7時55分、『標高2764m・地蔵岳』と記した標識の前に立つことができた。
 ここは賽ノ河原ともいわれ、小さい地蔵さんが祀られている。また、眼前には立錐する巨岩で出来たオベリスクが鎮座。このオベリスクには、どうして登ったのか、そのテッペンには人がいたのには驚いた。
 ここは、ちょうど、槍ヶ岳の肩から槍の穂先を仰ぎ見るのと同じような感じだが、規模が違うのでミニチュア化したようだ。このテッペンまでは、私たちでは登れそうもないが、雰囲気だけは味わっておこうと思い、この基部まで近寄ってみる。
赤抜沢ノ頭から地蔵のオベリスクを見る
 オベリスクを形成しているのは2つの巨岩だった。その間にロープが垂れ下がっていて、これに縋って登り降りをしているようである。岩登りの知識や経験のない私たちには無理であろうと判断し、敢えて挑戦することはなかったが、本心を吐露すれば登れるところまででもいいから登ってみたかった。
 天気は、昨日に引き続き快晴。最高の天気だった。
 このため、ここからは近くの甲斐駒ヶ岳、遠くには北アルプスの連峰がハッキリと見てとることができる。さらに目を凝らせば、槍の穂先も肉眼でも見ることが可能だった。これには大喜びでカメラに収めた。ちなみに、後日、プリントしたら穂先は欠落していた。惜しい落し物をしたものだと悔いるが、これだけはカメラ任せなので如何ともし難い。
 また、この間には八ヶ岳も……。この中でも一番手前の高い山、赤岳の雄姿が一段と存在感を際立たせている。これを見て、姫君は「あの赤岳はいいわね。一度、行ってみたいわ」を連発する。私は、この山は岩場が険しいと聞いているので食指は動かないが、来年あたり行くことになりそうな嫌な予感がしていた。
 目を東に転じれば、浅間山だろうか、秩父の山だろうか、名前も知らない山々の連なりが幾つも重なって見えていて、その眺めには圧倒された。
 南のほうは、目の前の赤抜沢の頭に遮られていて、この先の視界はいいとはいえないが、降りの一瞬、富士山が綺麗な姿を目にすることができ、感動は最高潮に達する。
 再び、賽ノ河原に降りる。
 このとき、まだ、朝食前であったことに気付く。時計を見ると、8時50分である。時間が経つのは早い。オベリスクの基部で1時間近くも遊んでいたことになる。「食事は何処でする? ここでいい?」と姫君の意向を確かめると、「こんな殺風景な所で……」と気に入らぬらしい。「じゃぁ、上に行こう」ということになって、赤抜沢の頭まで登ることにする。
 10分くらいで赤抜沢の頭に着く。
 ここは、夜叉神峠、白鳳峠、鳳凰小屋への道が集まる場所、三叉路になっていて、各方面から来た人たちが休憩していて大賑わいであった。早速、適当な場所を確保、コンロを出して予定どおりに『うどん』を作る。出来上がりに卵を落とし入れ、唐辛子もかけて、一口食べるが美味しくない。姫君に、「どう、味?」と尋ねると、「あまり美味しくないわね」との答えだった。食器の中のものは無理やり食べたが、鍋の中にはまだ残っている。「どうしよう、捨てるわけにはいかないし……」、「麺だけすくってビニール袋で持ち帰ろうか」などと相談していると、観音岳のほうから若者1人がやってきた。「そうだ、彼に食べてもらおう」、「そうね」と相談はまとまり、彼に薦めると、「遠慮なく……」と快諾して瞬く間に綺麗に平らげてくれた。急いで後片付けして、観音岳に向かうため、ここを後にする。
昨年登った北岳を見る
 赤抜沢の頭の出発は9時45分である。
 ここから300m内外を一挙に降り、最鞍部から400mくらいを登り上がると、鳳凰山の主峰の観音岳の頂上がある。ここへ至るまでの登山路は稜線上に付いているので、本日の天気であれば、景色は充分過ぎるほどに堪能できることは間違いなしと確信しての出発であった。結果は、これに違うことなく南アルプスの主峰群を一望できる醍醐味に浸ることができた。ただし、残念なことに南部はこれまでに一度も足を踏み入れたことがなく、また、書物も読んでいないという勉強不足から、目の前に見えているこれらの山々にあまり愛着がわいてこない。が、北岳、仙丈岳、甲斐駒ヶ岳は実際に登っただけに、あの辺りを、あのように登っていたのだとか、あの辺りがきつかったとかという色いろと思い出しながら見詰め直すということも、感傷というわけではなく、なかなか味わい深いことであることに気付く。特に、北岳の大樺沢は、大袈裟にいえば手を伸ばせば届く近さにあるだけに、この感慨はひとしお(一入)であった。
 観音岳の頂上直下の肩の辺りに差し掛かると、富士山の綺麗な姿が目の中に飛び込んでくる。先ほど、地蔵のオベリスクから降りるときに、一瞬、垣間見た際にも感じたことだが、昨年10月10日に北岳から見たものよりも大きくて立派に見えていた。距離はそんなに違わないし、見上げる角度もないなどなどと色いろと考えてみたが立派に見える原因については分からなかった。ちなみに、これは何も私だけのことではなく、姫君も本日のほうが大きく見えるという。いつぞや、誰かも語っていたが、富士山は登っても到達感、達成感を別にすれば、その過程に感慨を覚えるようなことはない。だが、この山を見るということは、何処から、どのような状況であったにしても、その都度、その都度、いつも違った感慨を与え、その思いは何時までも残るという不思議さを秘めた山というか、日本人の琴線に触れるものがある。この日もまた、この山が見えている間、あちらからも、こちらからも何枚もカメラに収めた。
 ここからひと登りで、標高2840m、鳳凰三山の主峰・観音岳の山頂に着く。到着時刻は、11時20分だった。
 これで今回の最高峰を極め、目的は達成する。残るは薬師岳だけだが、これはここから降った先に頂上がある。
 この薬師岳頂上に置かれた山の名を記した鉄パイプ製ビラミット型のオブジェというか、造作物がここからもハッキリと見てとることができる。ちなみに、この小さいピラミッドは三山の何れにも置いてある。もちろん、ここ観音岳にもだ。
 11時30分、ここを後にして、最後の薬師岳へ向かう。
 頂上が直ぐ目の前に見えており、しかも降りであるので、直ぐに着くであろうと思っていたが、結構、時間がかかるもので頂上到着は12時10分、出発から40分後であった。
観音岳からの眺め (後方は薬師岳と富士山)
 頂上では、2組がラーメンの食事をしていた。だが、私たちは食欲がなく、ここではコーヒーを飲むだけにする。コーヒーのついでに、水の話を少しする。このコースは水場がないので、今朝、鳳凰小屋を出発するときにお湯1ℓ、水1ℓ、飲料用のジュースとポカリスエット1.5ℓを用意、持参したが、この頃になると残りの配分を計算しなくてはならなくなっており、これでも不足気味であった。このことを教訓にすると、ここのように水場のないコースでは、多めの水を持っていかなければと痛感する。
 12時30分、名残り惜しいが、あまりユックリもできず、ここから青木鉱泉へ直接に降りる中道ルートで予定どおりに下山となる。
 いつもなら、下山時には後を振り返り、振り返り、また、何時の日にか来てみたいと名残りを惜しみつつ降りるものだが、ここはザレ場を2、30mも急降下すると樹林の中の急降下に変わり、振り返っても何も見えなくなる。それより滑り落ちないよう必死に木の枝、根っこにしがみつきながらの下降が続き、何時の間にやら、こんな感傷は吹っ飛んでしまっていた。
 こんな樹林帯だったが、これについて疑問というか、考えたことがある。前回の甲斐駒ヶ岳や仙丈ヶ岳の際にも感じたことだが、南アルプスの森林限界は27、2800m辺りだと見受けられる。これに対して北アルプスのそれは2000m前後だと思われる。この差は何によるものだろう。ある人は、「その位置の南北の温度差による植物の生育の度合いの違い」だという。だが、肉眼で視認できるような近い距離にある北アルプスと南アルプスの間に植物の生育に影響を与えるほどの温度差があるとは考え難く、この説には賛同しかねる。私は、これらの山脈が形成された年代が関係するのではないすと思っている。すなわち、南のほうが北より早くできたことは事実らしい。仮に1000年かかって1m、森林限界が上へ伸びるとすると、700mの差は70万年となる。両山脈の形成された年代の差が70万年となる。実際にどのような数字を当てはめると良いかの知識はないが、基本的にこのように考えたほうが説明がし易いが、実際はどうであろう。温度差か、年代差か、はたまた他の原因か、御存じの方の御一報を待つ。
 閑話休題。1度道を間違えて15分くらいのロスタイムがあるが、13時40分に御座岩を通過する。
 その後、14時から約30分の昼食を除けば、あとは『歩け、歩け』の強行軍で降り降りる。この強行軍が原因か、その他に原因があったかどうかは分からないが、昼食のラーメンは2人ともに半分くらい食べ残す。このときの心境は、「ラーメンより思いっ切り、水が飲みたい」というもので、残り少なくなった水を分けあって飲んだ。
 15時頃になると、針葉樹林の中、笹を切り払って作った歩き易そうな道に変わってきた。しかし、これが『あに(豈)図らんや』である。道には無数の木の根が地表に顔を出したり、地中浅くに埋まっている。加えて、この辺りは山の北斜面で湿気が多く、根っこは濡れた状態である。うっかりと乗ってしまうとツルッと滑るので始末が悪く、悪戦苦闘を強いられる。
 17時10分、夕闇が迫る中、ようやく青木鉱泉に辿り着いたときには、足はガタガタになっていた。
鳳凰山での証拠写真

百名山の思い出・その18(前編) - 2013.05.10 Fri

鳳凰山 (ほうおうさん・2840m)
 1999年の遠征登山は、天候に恵まれなかった。
 先ず最初に計画した3月の御嶽山は吹雪で登山口まで行くことなく断念。この帰途に立ち寄った南木曽岳も頂上を踏むことなく途中でリタイアを余儀なくされた。
 5月の唐松岳・五竜岳も天気が良かったのは初日の午前中のみで、続く7月の甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳も曇りや雨。8月の雲ノ平行きも、4日間ともカッパを着けない日はなしというように、天候が良かった山行きは1度もなかった。このため、この年で最後の遠征となる10月の体育の日に絡む連休の天気は気になるところであった。
 この連休は、諸案を検討した結果、南アルプスの鳳凰山に決定した。
 ちなみに、鳳凰山という名前の山の頂はない。この山域というか、1つの尾根には薬師岳、観音岳、地蔵岳の3つの山が並んでいて、これらの総称が鳳凰山もしくは鳳凰三山である。なにゆえ、この3つの山を鳳凰山もしくは鳳凰三山と称するのか、その理由を私は知らない。
 この山へ行くには、夜叉神峠から往復するか、夜叉神峠から鳳凰山を経て早川尾根で広河原へ降りるかが考えられる。事務局(スナック・奈つ)で、姫君と私がこれらのルートの検討を行っていると、そこへ貴船亭盗介さんがやってきた。彼が曰く、「鳳凰山なら東側の青木鉱泉から周回するコースがあります」と……。そして、コースを紹介したガイドのコピーも持ってきてくれる。これで鳳凰山へのルートは、青木鉱泉からドンドコ沢を経て鳳凰三山を縦走、最後の薬師岳から中道で青木鉱泉へ戻るという周回に決定した。
 盗介さんとは、鈴鹿の雨乞岳で初めて出会った。名刺を交換すると、何と彼は事務局の隣のビルで料亭貴船を経営していた。こんな奇遇が取り持つ縁で、以後、互いの知り得た情報を交換するという付き合いが始まり、これがずっと続いた。
 盗介さんは上方志向の強い人物で、活動の場をアルプスに求め、またクライミングにも果敢に挑戦するなど、私とは少し肌合いが異にした。だが、何故だかウマが合い、私たちの事務局を撤退するまで交流が途絶えることはなかった。ちなみに、私たちより遅れること数ヶ月で、料亭貴船も閉店となって交流は途絶えた。気になっていたが、昨年、涸沢で盗介さんに出会った人があり、私より5歳も年長ながら、まだ元気にアルプス通いを続けているようだ。こんな彼の活躍を聞くと、私も頑張らなければという気持ちにさせられる。
 閑話休題。こうして、10月10日および11日の2日間は鳳凰山の縦走に決まるが、どうこうするメンバーは集まらず、姫君と私の2人だけで行くことになった。この山行記も、ヨレヨレ新聞第016号に掲載されていたので、これをもって百名山の思い出とする。
 《以下、ヨレヨレ新聞より転記》
登山口、青木鉱泉の風格ある玄関
 10月10日に日付が変わったばかりの深夜の0時10分、事務局を出発する。
 コースは、事務局から春日井までは国道19号、ここから韮崎までは中央自動車道、韮崎ICを降りてからは国道20号と小武川林道を走り継いで青木鉱泉へという計画だった。
 当初、一気に走って青木鉱泉で仮眠する予定であったが、高速道を走りながら『真っ暗やみの中を1度も通ったことのない林道を走っていけるだろうか』と考えると不安になってきた。このため、韮崎ICに最も近い八ヶ岳PAで仮眠、明るくなってから青木鉱泉まで走ることに予定を変更した。
 3時過ぎ、八ヶ岳PAに到着、仮眠する。そして5時過ぎに辺りは白み始めたようで、この気配で目を覚まして直ちに車を走らせる。
 なお、ガイドブックには、『韮崎ICで中央自動車道を降りて国道20号線で諏訪方面に向かい、小武川を渡って武川村に入ったら最初の宮脇交差点を左折……』と書いてある。ここまでは、このとおりに間違うことなく走ってくることができたが、この先がいささか分かり難く、真っ暗やみの中を走ってきては難儀したことは確かで、途中の仮眠は正解であったと自画自賛する。ちなみに、ガイドブックは東京を起点にして書かれており、反対方面の名古屋から行く場合は注意したほうがよい。というのは、今般、韮崎ICで降りるとあるが、名古屋からの場合は2つ手前の長坂ICで降りたほうが、時間も費用も少しは節約できることになる。
 青木鉱泉には、八ヶ岳PAから1時間余で到着。直ちに駐車場に車を入れて身支度を整える。ちなみに、この駐車場は、青木鉱泉経営の有料(1日700円)なので、先ず最初に、ここを訪れて料金を支払ってから出発となる。
 7時10分、青木鉱泉の前庭に建てられた案内板に従い、ドンドコ沢に向かって歩き始める。
 この庭を抜けると直ぐ、沢道と山道の分岐になっていた。
 「どちらから行く?」と姫君のご意向を伺うと、あっさりと「どちらでもいいわ」とのこと。「じゃぁ、山コースで行こう」と、道を右手に採る。こちらを選んだのに別に根拠があったわけではない。強いて言えば、沢コースだと岩の上を飛ばなくてはならないかも……、という光景が脳裏を過ったためだったかもしれない。ちなみに、この先、山コースと沢コースの合流点には、親切なことに山コースのほうが沢コースより10分ほど余計にかかる旨の表示があり、『しまった』と後悔することになる。
 山コースは、最初、山腹のジグザグ道を20分くらい登ると尾根に出るので、ここを更に峠まで登り上がり、ここから大きく下って、また、登り返すという具合に起伏がある。一方、沢コースは、単調に登り上がるだけというのが10分という時間差になるようだ。
 8時20分、沢コースとの合流点に到達する。朝食前のひと歩きで腹も減ってきたので、今、横切ってきた沢まで戻り、ここでオニギリとスープの朝食を摂る。
 このとき、顔を上げるとスッキリと澄み渡った真っ青な空、所どころに見える白い雲がアクセントをつける絶好の山歩き日和。今日が晴れの特異日、10月10日であることを目で実感する。
 歩き始めたときは、薄い長袖シャツだけでは少し肌寒いので余分に1枚着るかどうか迷ったが、止めにして正解という、ほどよい気温である。
 あまりの天気の良さに、「サングラス、持ってきた?」と姫君に尋ねると、「持っているわ。でも、この帽子だけで日よけの帽子を持ってこなかったの、困ったわ」と、被っている野球帽を指で示す。『女性は余分な心配をしなくてはならないので大変だ』と、内心、憐れんでいたが、これは何も女性だけに限らないことが後になってわかった。ここから帰って、2、3日、私も唇がパサついて仕方がなかったが、これも日焼けの後遺症のようだった。
南精進ノ滝、滝壷には近づけず
 8時50分、再び、歩き出す。ここからドンドコ沢を登り上がり、見所の4つの滝、すなわち南精進ノ滝、鳳凰ノ滝、白糸ノ滝、五色ノ滝を巡るコースに入る。
 道は、これまで同様、沢の左岸にシッカリとしたものが付いている。また、要所、要所に道標や案内表示板が取り付けられていて道迷いの心配は少ない。加えて、本日は登り降りともに登山者が多いのも、未知の道を歩く不安を払拭してくれる。それより、これだけ多くの登山者がいては、小屋に着いてからのテント場の確保ができるかという心配のほうが先に立つくらいだった。
 10時05分、最初の滝である南精進ノ滝への分岐に到着する。
 この分岐に荷物を置き、空身で他木見物のために沢へ降りる。滝壺まで行くことができるものだと思っていたが、大きな岩に行く手を阻まれて簡単には近付けない。「この岩を乗り越えて行ってみる?」と姫君の意思を確認しつつ、岩を乗り越えるべく試みるが、これがなかなか容易ではなかった。私が、モタモタしているのを後ろから見ていた彼女が、「そんなところ、危ないから止めようよ」という。これで前進を諦めて、滝見物は岩の手前から上部だけを垣間見ただけでお茶を濁す。ここに私たちが滞在していた間に、この岩を乗り越えて行った者はおらず、皆、私たち同様にここから引き返したようだ。実は、この滝を見物するための展望台が沢へ降りる途中に作ってあるが、この時期では樹木の枝や葉っぱが邪魔をするので展望は満足できるものではない。
 10時40分頃、鳳凰ノ滝への分岐にやってきた。
 南精進ノ滝のときと同じように、ここを荷物置場にして滝を往復しようとしていると、「滝の先で登山道と合流しますよ」と親切に教えてくれたうら美しい女性がいた。彼女は、ここに来るまでに抜いたり抜かれたりしてきており、顔は見知っていたが、言葉を交わすのは初めてだった。これを機に話すようになり、彼女が沼津から息子さんと2人でやってきたこと。写真が趣味ということなどなどが分かり、この先、鳳凰小屋まで相前後して歩くことになった。
 下ろした荷物を再び担ぎ上げて滝へ向かって歩き始める。ここから滝までが長かったうえ、結構な急登を強いられ、「はぁ、はぁ、ぜい、ぜい」といわされることになる。『荷物を置いてこなかってよかった』と彼女に感謝することしきりだったが、とても口がきける状況ではなく、感謝の気持ちを口にして表すことはできなかった。
 11時15分、ようようの思いで、鳳凰ノ滝に到着する。
 この滝は、左右に相対した2ヶ所の落ち口を持ち、これらから流れ落ちる水が途中で1つになり、水量を増して落ちるという規模の大きいものだった。しかし、これまた近付くことはできずに遠くから眺めるだけで、『苦労して登ってきた割には報われない』という、いささか、拍子抜けする滝でもあった。
 この滝見物を終え、登山道へ降りる途中で、大きいパーティが下の方を通り過ぎていくのが見えた。「あの連中、滝を見ずに行くよ」と私がいうと、「知っているのよ。苦労してまで見る価値のないということを……」と姫君も応じる。「そういえば、鈴鹿の庵座ノ滝のほうが見応えがあるね」と、鈴鹿の良さを再認識していた。
 登山道へ復するが、ここからも相変わらずのキツイ登りが続き、かつ、木の根が階段状になっていることが多くて私には不向きな道だ。これだけでは分からないといけないので補足すると、私は足が短いうえに身体が固くて足が高くは上がらないので、こういう道は非常に堪えるのだ。また、樹林の中で木の枝がザックにつかえるので歩き難いこと、この上ない。
鳳凰ノ滝、垣間見たという程度
 ついでに荷物について述べておく。
 家で最初に荷物を作ったときには15kg。担いでみると軽い。『これならよし』と軽量化に気を良くするが、その後、飲料水、生鮮食料品や弁当などが加わり、最終的には18kgくらいになり、このとき、これを担いでいる。雲ノ平の際の荷物に比べれば軽いが、半日歩くと、この荷物が気(負担)になるようになっていた。
 12時45分頃、白糸ノ滝に到着する。
 この滝も近くまで立ち寄ることは適わないのに加えて、このとき、少しガスが出てきていて見通しも悪く、スカッとした滝とはなっていなかった。また、名前からは細い糸を引くように流れ落ちる滝を想像していたが、現物は太くて短い滝であったこともガッカリとさせる因となり、早々に引き揚げることになる。ちなみに、後日、写真を整理すると、この滝の写真は姫君が2枚、私が1枚の計3枚しか写していなかった。この1件だけでも、このとき、どれだけ拍子抜けであったかが分かろうというものだ。
 ここで遅めの昼食となるが、オニギリとお茶だけの質素なものである。献立に問題があるか、疲労が原因なのかは定かでないが、2人ともあまり食欲はわかず、姫君にいたっては、オニギリ1個だけであった。いつもの健啖ぶりは影を潜めている。ちなみに、私は2個であった。
 昼食後、最後の滝、五色ノ滝へ向かう。この頃になると、内心、滝見物などはどうでもよくなっていた。それより、何時になったら小屋に到着するか、それまで体力が持ち堪えられるか、そのことのほうが気がかりになってくる。要するに、このコースはハードである。
 13時45分頃、五色ノ滝に着く。
 あまり期待はしていなかったが、一応、最後の滝でもあり、下に降りて見にいくことにする。下に着き、滝を眺めて、今回、初めて満足する。落差といい、水量といい、申し分ないもので、とても品格のある滝だということができる。実際にはいかなかったが、行こうと思えば滝壺の近くまで行くことは可能で、見取れて立ちつくしていた場所にも途中の岩にぶつかって砕け散った水の飛沫が風に乗って届いており、長居をすればシャツも濡れてきそうで、滝に遭遇した臨場感に堪能、充分な満足感を味わうことができる。
 ここが終われば、あとは立ち寄る所もなく、小屋まで一直線である。
 また、幸運なことに、ここを過ぎると今までのような急登は影を潜めて傾斜の緩やかな登りとなる。本来なら、時間稼ぎで足を速めたいところだが、このとき、私の足には自分の意思が伝わらなくなっており、このように平地を歩いたら人が笑うという、ヨロヨロとした歩きになっていることが自分自身でも分かる。姫君にも、「だいぶ、足にきているのね。もう少しだから頑張って……」と、冷やかしとも、励ましとも、どちらにも受け取れそうな言葉をかけられながら、何とか足を前に出している始末で、今まで後になり、先になりしてきた他のパーティ総てに追い抜かれてしまうことになる。
白糸ノ滝、名前と不釣り合いの幅広い滝
 小さい丘を乗り越え、次の登りの斜面に入る手前で、私たちの進行方向に矢印を向けて『北御室○○(○○部分の文字は読み取り不能)⇒』の標識を見る。これまでの標識には、進行方向は『鳳凰小屋』もしくは『地蔵岳』であり、北御室○○というのは初めて聞く。一瞬、道に迷ったかとの思いが頭に浮かんで青くなった。ちょうと、前方から下山者がやってきたので、「鳳凰小屋のほうからおいでですか?」と尋ねると、「はい」との答え。「実は、あそこに北御室○○という標識が出ていたので、道を間違えたのかと思いました」というと、「あぁ、それはこの辺りの地名のはずですよ」と教えてくれ、これで不安は解消した。この人、学生風の若い女性だったが、『よく知っているな』と感心しながら礼を言って別れる。ちなみに、後日、地図を見ていると、『北御室小屋跡』という文字があった。昔、このような名前の小屋があり、この標識はここへ誘導するためのものだったことが分かった。
 ここを過ぎると、道は水のない沢の中へ入って行く。この沢はドンドコ沢の源流部で、私たちはドンドコ沢の中を歩いて行くことになる。
 次に、この沢を右手に出て、暫く歩くと、木立とか、背の高い草に邪魔されてハッキリとした輪郭は分からないが、小屋らしきものが見え隠れするのに気付く。姫君に、「あれ、小屋じゃぁない」というと、「そのようね」と姫君も確認する。半ば、安堵しながら道に沿って右に曲がると、小屋が全貌を現した。着いた、やっと着いた。
 小屋到着の正確な時間の記録はないが、15時少し過ぎた頃だったとの記憶である。
 青木鉱泉からの所要時間は8時間。コースタイムは5時間であるので、この6割増しの時間を要したことになる。ただし、コースタイムには滝見物の時間は含まれていない。登山道から滝までの往復の時間、滝見物の時間が含まれていないことになるが、これを1つの滝で30分と仮定すると、滝4つで2時間が余分にかかることになる。これを差し引けば、正味は6時間となり、私たちなりに健闘したことになる。そして、こういうときにいうのだろう。マラソンの有森裕子さんの名文句、「自分を褒めてあげたい」と……。
 本日の小屋は満員だった。
 ここは南アルプスなので、北沢峠の小屋と同じ山域である。北沢峠の小屋では、前回、予約せずに訪れて断られたので、ここはどうしているのだろうと尋ねてみると、「予約制は採っておりません」とのことだった。小さな小屋なので定員を大きく上回る登山者が押し寄せてきたときにはどうするのだろうと、逆に心配になったほどである。
 小屋ではテント泊の手続き(1人400円)をしてテント場に行くと、既に立錐の余地のないほどにテントが張られている。係の青年の指示に従い、ほんの僅かの空間に、隣のテントにぴったりとくっつけて、私たちのテントを張り終える。
 テントが完成すると、小屋でビー(350ccが600円)を買ってきて、無事の到着を祝って乾杯。引き続き、持参の焼鳥とウィスキーの水割で酒宴を催す。材料が切れて酒宴は取り敢えずお開きにして、次は夕食。これは決めて会ったとおりに和風スパゲティだった。
 食べ終えたときには、スッカリと陽は落ちて気温も下がって寒くなっていた。「寒い、寒い」といっていると、テント場の係の青年が「小屋の中の談話室にコタツがあります」と教えてくれる。
 早速、ウィスキー持参で談話室へ姫と2人で出かけ、小屋泊まりの人たちと団欒。姫君は早めに切り上げたが、私は意地汚く飲んでいて、スッカリと酔っぱらってしまう。さて、帰る段になるが、無数のテントが隙間なくぎっしり張られているので、自分のテントが分からなくなってしまう。窮余の一策、大声で姫君の名前を叫び、姫君にテントから出てもらって野宿だけは免れた。テントへ入るときには近くのテントから失笑が漏れていて、中へ入ってからこっ酷く叱られたことは改めて書くまでもないだろう。
五色ノ滝、前の3つは前座だった

百名山の思い出・その17 - 2013.01.15 Tue

仙丈ヶ岳 (せんじょうがたけ・3033m)
 1999年7月18日。
 4時30分頃、南アルプスは北沢峠のテント場で朝を迎える。
 テントの周辺の様子から推すと、夜半には雨が降っていたらしい。だが、今は上がっていた。
 普通なら夜中に1度くらいは目を覚ますのだが、昨夜に限ってはこうはならなかった。その理由は……。
 昨夕、焼鳥パーティーを行い、持参の食材を食べ尽くし、酒も最後の1滴まで飲み干した。その結果、充分に酔っぱらってグッスリと眠ったようで、夜中に起こったことなど何も覚えていない。
 頭がハッキリしてくると、ヒロシちゃんのテントで寝たシカちゃんのことが気になってきて隣のテントを覘いてみる。彼も既に起きており、様子を尋ねると「寒くもなかったし、寝苦しいこともなかった」とのことでヤレヤレと胸を撫で下ろす。
 朝食は、クロワッサンとコーンスープと軽めのものを用意してあったので、これで手早く終える。ちなみに、前回の唐松岳のとき、朝食用のパンが他の荷物に押し潰されて固くなって食べるのに苦労した。このため、今回はプラスチックケース(タッパーウェア)に入れて保護してきたので前回のような失敗は起こらず、美味しく食べることができた。スープもお湯で溶くだけの簡便なものだが、こういう場所で飲むと身体が暖かくなって美味しさも下界では味わうより数当倍も美味いということが分かる。でも、全部が全部、上手くいったわけではない。パンに付けるものとしてクリームチーズを持ってきたが、これは乾燥してパサパサになってしまっていた。
 食後、コーヒーを飲みながら本日の行動、仙丈ヶ岳行きに異議を唱える者はなく、予定どおりに実行することを確認する。
 天気は芳しいものではなく、何時、降り出すかは分からないという雲行きなので、テントは張ったままで中に荷物を入れておいて帰ってから撤収するという手順にする。
 こうして、6時頃、テント場を出発する。
 林道まで出ると、『☜仙丈岳2合目・見晴らし台』という標識が出ていた。これは、多分、近道であろうが、「初めて行くのだから正規の道で行こう」と、バス停まで足を伸ばす。

北沢峠の登山口

 バス停の前には、立派なトイレが造られている。誰かが、「トイレにいっておく」といって中へ入っていく。待っていると、催してくるものらしく、次が入り、また次がとなる。私は、その気はなかったのだが、どうしたわけだか便意を催してきて、最後になって「僕も……」とトイレに入っていくことになった。
 ここのトイレは、完成後、間もないもので、水洗式。大便器も西洋式の腰掛型、しかも便座はヒーター付きだ。わが家にもない立派な設備が大いに気に入り、ユックリと用を足して出てみると、シカちゃんが先行、出発していった後だった。
 6時20分、慌てて、登山口を後にする。
 本日は15時50分の最終バスに乗らなくてはならないが、9時間もあるので計算上はタップリと時間がある。でも、帰ってからテントの撤収作業の時間も必要だし、私たちはコースタイムの5割増しの時間を要するということも珍しくはないので、その場にならなければどうなるか分からないという危なっかしいところがある。したがって、本日は11時をタイムリミットとして行ける所まで行き、その時点で帰ってくるというタイムトライアル方式で行くことを話し合いながら樹林の中の尾根道を歩いて行く。
 2合目の手前で、シカちゃんに追い付き、しばらくは4名で歩いて行く。間もなく、シカちゃんが「先にいってくれ」とのことで、私と姫君が先行することになる。
 6時50分、私たちが2合目に到着。ここで待っていると、5分くらい後、ヒロシちゃんとシカちゃんが相次いで到着する。
 次に、7時25分、4合目に到着して暫く待つが、後続の2人はなかなか姿を見せない。「先に行こうか?」と姫君に同意を求めると、「そうね、先も長いし……」と賛意を示す。
 ここから先、数組の下山者と出会ったときの会話を要約すると、彼らはいずれも馬ノ背ヒュッテに泊まった人たちだった。そして、昨日、小仙丈ヶ岳から登ったが、所要時間は5時間くらいだったらしい。彼らと同じように歩けたとしても、これだとギリギリ。下手すればタイムオーバーだ。
 「折角、来たのだから頂上に立ちたいわね」と姫君。私とて同様であることはいうまでもないことだ。頭の中で色いろと計算して、「馬ノ背のほうから周ろうか? 多分、こちらからのほうが早そうだよ」と提案。即座に意見は一致する。
 7時45分、5合目の大滝ノ頭に到着する。
 ここを直進すると小仙丈ヶ岳を経由して頂上へ行くことができ、右手のコースだと馬ノ背からダイレクトに頂上へ行くことができることは出発前に地図で確認している。また、ここに立てられた標識にも、これが正しいことが示されている。

大滝ノ頭

 しかし、普通は小仙丈ヶ岳から行くことが多いので、逆回りになる。これを後続のヒロシちゃん及びシカちゃんに知らせなければならない。幸いなことに、昨夜の雨で地面が柔らかくなっていたので、ストックで馬ノ背のほうへ行くことを地面に掘り込むように書き、「これなら、分かるだろう?」と姫君に確認、右手へルートを変更する。
 この分岐から右折して、しばらく進み、小さい沢を2、3度、横切っていくと林の中に薮沢小屋があった。この小屋は素泊まり客だけを引き受けているとガイドブックに書いてあった。玄関で声をかけてみると、だいぶ間があってから眠そうな顔をした若い男性が出てきたところからみて、昨夜は宿泊者がなかったのではないかと思った。
 この小屋を過ぎて間もなく、それまでポツポツと雨粒が落ちたり止んだりという状態であったのが、それよりは雨脚が強くなってきた。このため、私はカッパを着けるが、姫君は「この程度なら上だけで大丈夫よ」と、カッパの下を着けることはなかった。しかし、この姫君の読みは当たりで、それ以上は強くはならなかった。
 水はそれほどではないが比較的大きな沢を越えると、太平山荘からの道と交わる。ここからひと登りすると、馬ノ背ヒュッテの真新しい建物が見えてくる。
 ここを過ぎると、『馬ノ背・標高2700m』の標識の立てられた小広場があった。このとき、8時50分。先ほど、小屋の人が「頂上まで1時間10分」といっていたので、計算上は1時間の余裕をもって頂上に立つことができ、ヤレヤレである。でも、70分というのは、小屋の人など歩き慣れた人の話で、私たちではこんな具合にはいかないだろう。それでも何とか11時までに頂上にたどり着けそうだと分かると現金なもので、気持ちにも余裕が出てくるようだ。
 これまでは歩くのに必死で周囲のことなどまるで覚えていないのに、この辺りの道端に多くの花が咲いているのに気付いた。名前は分からないが、黄色、白、ピンクなどの花々が群生していた。この中に濃い紫色というか、濃褐色というか適当な表現は思い付かないが、ユリを小さくしたような花が目に付いた。これが、先ほどすれ違った女性が話していた『クロユリかな』と思ってみるが、初めて見る花で確信は持てない。

藪沢カール越しに仙丈ヶ岳を望む

 このお花畑を過ぎると、ハイマツの緑のじゅうたんの遥か向こうではあるが、仙丈ヶ岳のやや長めの頂上が分かるようになり、しかもその上に立つ人影らしきものまで見てとることができるようになる。こうなると『もう直ぐだ』と気が急くが、ここからが、結構、時間がかかったように感じる。
 避難小屋を過ぎると山頂までは指呼の間、着いたのも同然だと思い、張り切って登ろうとするが、現実には勾配がきつくなって足がいうことを聞かない。
 ここで前日に再会した東京の登山学校の一行と、また出会い、しばらく立ち話。「レポートだけで卒業証書を貰えるよう、校長先生にお願いしてよ」との会話を最後に彼らと別れる。
 最後のひと登りをすると、10時05分、頂上に到着する。
 出発からの所要時間は3時間45分、コースタイムより早く歩いた勘定で、こんなことは初めてである。
 このとき、雨は上がっていたが、雲が視界を遮っていて、遠くは何も見えなない。昨日、甲斐駒ヶ岳から仙丈ヶ岳が見えていたので、ここからも甲斐駒ヶ岳は見えるはずだが、何処にあるか、その方向すらも分からない状態であった。
 でも、雲の切れ間に山並みが見え隠れしており、多分、中央アルプスだと思われるが、こんな山影でも見えただけでも良しとしなければと自分自身を慰める。

視界のない仙丈ヶ岳の頂上

 復路は、最短の往路をそのまま引き返す予定であったが、思ったより早く着いたため、時間的余裕もある。「それなら小仙丈ヶ岳のほうから周ろう」と、姫君との意見も一致、その方向へ降り始める。すると、急に霧が出てき始め、たちまちのうちに目の前の視界が奪われていき、5mくらい先が辛うじて見えるまでになった。当然、降りて来たばかりの仙丈ヶ岳の戴きも掻き消されてしまい、再び、見えることはなかった。
 帰り始めてから20分も経った頃だったか、「あそこにいるの、ヒロシちゃんじゃぁない?」と、姫君が霧の向こうを指差す。頂上と反対側のほうで、幾分霧は薄いが、それでも私の目では人を識別できるものではなかった。でも、こうなると見極めたいのは人情、自然に歩みが早くなった。そして、その人影に近付いてみると、姫君の感は当たり……、ヒロシちゃんだった。
 「こっちからきたの? 大滝ノ頭に書いておいたのを見なかった?」と真っ先に尋ねるが、「いやっ、知らない」との由。ちなみに、帰りに確認したが、多くの人に踏まれたためか、消えてしまっていた。
 「ここから頂上まで登りで30分くらいだよ。帰りは向こうから降りると早いよ」と登頂を薦めると、「頂上なんて、行ってもいかななくても……。一緒に帰るわ」とヒロシちゃんは淡白であった。
 「ところで、シカちゃんとは何処で別れたの?」と気になっていたことを尋ねると、「3合目。ゆっくり歩いて行くといって……。もう、帰っているかもしれない」とのことだった。
 何時ものことながら、帰りは早い。途中でコーヒータイムを採ったが、それでも、13時前に登山口に帰り着いていた。
 テント場に帰ってきても、シカちゃんの姿はない。「バス停のほうで待っているのだろうか?」、「帰りのバスの時間は知っているから大丈夫だよ」などなどと会話しながらテントを撤収して、食事をしているときにシカちゃんが姿を現わす。彼の話を聞くと、小仙丈ヶ岳まで行って、そこから引き返してきたとのことだった。これなら途中で出会っていても良さそうなものだが……、と思って私たちの行動とすり合わせする。小仙丈ヶ岳には、頂上を踏む道とこれを巻いて通る道があって、シカちゃんが頂上にいるうちに私たちが巻道を通って下山したため、行き違った形になったことが判明した。
 これで全員が揃い、帰り支度してバス停に向かう。
 ここで1時間近く待たされるが、それでも定刻前に臨時便が出て、これに乗って予定よりは早めに仙流荘に帰り着いた。

ガスで視界のきかない下山路

百名山の思い出・その16 - 2013.01.14 Mon

甲斐駒ヶ岳 (かいこまがたけ・2966m)
 南アルプスの明峰、甲斐駒ヶ岳には1999年7月17日に登っている。
 この山域では、前年、98年10月に北岳へ登っているので、南アルプスでは2番目の山だということになる。ちなみに、前回の北岳は私たちのテント泊デビューだったが、今回の甲斐駒ヶ岳はヒロシちゃんの初めてのテント泊となった。
 私が、この山、甲斐駒ヶ岳を知った経緯については忘れてしまっていて審らかでない。考えられるのは、多分、北岳から三角形の綺麗な形をした山が見えていて、これを画面の中央に入れて記念写真を撮っており、これで知った公算が大である。
 なお、甲斐駒ヶ岳へは、この年の6月に登ることを決めていたようだが、これが天候の関係で流れたので、この海の日がらみの連休を利用して、仙丈ヶ岳と合わせて登ることになったようだ。
 この登山の一番の思い出というと、登山そのものではなく、その日の泊まるときに起きた事件である。
 これまで遠征登山で宿泊予約を入れたことは、クーポン券を作成した大台ヶ原のときだけであった。2回目の剱岳行きの際は、クーポンを組んでもらったが山小屋は除外であったので、山小屋というものは予約せずに利用するものだと思い込んでいた。
 この常識が、この山域(北沢峠周辺)では通用しなかった。
 今回メンバーは4名で、うち1名だけが小屋泊まりを予定していた。当日、宿泊を申し込むと、「予約なき者は宿泊させない」と断られてしまった。「食事はなし、廊下の端でもいいから何とか泊めてくれ」と懇願するも、問答無用と鼻もひっかけなかった。ちなみに、この結果、小屋泊まりを予定していたシカちゃんは手持ちの着替えを全部着込んだうえ、さらにカッパも着こんで、仲間のテントの中に潜り込んで1夜を過ごした。
 こんな思い出深い山行きであるが、細かいことは覚えていない。でも、幸いなことに、『ヨレヨレ新聞・13号』に山行記が掲載してあったので、これを転記する。

おろし立てのテントの前に立つ隊長のヒロシちゃん

《以下、ヨレヨレ新聞から》
 甲斐駒ヶ岳への参加者は、先の五竜岳行きのメンバーと同じ顔ぶれの4名だった。すなわち、隊長のヒロシちゃん、デンちゃん、姫君に私の4名だ。
 前日の16日の夜、23時頃から事務局(姫君のスナック)に集まって閉店を待つ。運よく(姫君にとっては不運であろうが……)0時前に客が帰ってくれる。姫君は、直ちに後片付けして、接客用のドレスから山行用に着替え、伏見の美人ママから逞しい山女にと見事に変身する。この姿をみるにつけ、「店と山、どちらが本当の姫君であろうか?」と思うのが常である。
 0時30分、事務局前を出発。当初は参加者5名の予定だったため、車はシカちゃんの8人乗りのワンボックスカー。運転は、中央自動車道の阿智PAまでを私、ここから戸台の仙流荘までをシカちゃんが担当する。この日は真夜中でも道路は混んでいて、仙流荘に到着したのは3時30分であった。
 ここの広い駐車場には多くの車が停まっており、そのナンバーを確認すると遠い所では岡山とか横浜というものも混じっていた。また、車の周辺にはテントを張って仮眠している人もみられる。これらに倣い、私たちも車内で仮眠を採ることにする。
 辺りが白み、ざわついて来た5時30分頃に目覚める。
 持参の弁当で早い朝食を済ませ、少し離れた所にあるバス停に行くと、既に長い登山者の列ができ、バスを待っていた。バスの始発は6時30分であるが、定刻前に改札が始まる。バスは28名乗りの小型で、満員になり次第、順次出発していく。私たちは4代目に乗ることができ、北沢峠へと向かう。
 この戸台から北沢峠への道は南アルプス林道といい、一般車両は通行禁止で、唯一、長谷村(当時:現在は伊那市)の村営バスだけが通行できる。このため、登山者総てが、このバスに乗ることになるので、早朝からこの有様である。
 村営バスの運転は、長谷村の職員が正式な職務の傍らで務めているようだが、公務員とは思えぬほどのサービス精神で、バスの車窓に映る山や動植物について懇切丁寧に説明してくれ、本職のバスガイドが裸足になって逃げ出しそうである。これを聞いていると、所要時間の1時間はアッという間に過ぎてしまい、いつの間にか北沢峠に到着していた。
 この北沢峠の周辺には、長衛荘、北沢長衛小屋(当時:最近、北沢駒仙小屋に改名)、仙水小屋、大平山荘の4つの山小屋がある。このうち、テント場に最も近いのが北沢長衛小屋であるので、ここを基地にして初日に甲斐駒ヶ岳、次の日に仙丈ヶ岳を各々ピストン登山する予定である。このため、直ちに、ここのテント場に向かう。
 10分くらいでテント場に着く。ここは北沢沿いのチョッとした広場をテント場に流用している形だ。
 ここにテントを張り終え、カッパ、弁当、お茶など、必要最小限のものをサブザックに詰め込んで、直ちに甲斐駒ヶ岳を目指すことになる。

今は無き長衛小屋

 これに先立ち、北沢長衛小屋で手続きを済ますが、小屋泊まりは予約者のみで『お断り』という予期せぬものであった。これまでの北アルプス流儀が身に付いているので『そんなバカな!』と思うが、この先に仙水小屋があるので、小屋泊まりを予定するシカちゃんは、ここに泊まればよいと考えを切り替える。
 そして、8時30分、長衛小屋(標高1980m)を後にし、甲斐駒ヶ岳(標高2966m)に向かって歩き始める。
 沢沿いの登山道を30分ばかり、緩やかに登っていくと、小さな汚い小屋があった。小屋の前には流し台が置かれ、ここには水が流れっぱなしなっていて、絶好の水場になっている。ここで今晩の宿泊を頼むが、「予約客で満員につき、お断り」といい、更に頼み込むと、「早く降りてきて最終バスで帰ればいい」というつれないものだった。今回、ヒロシちゃんもテント泊を始めるということで、2人用のものを持参しているので、場所には不自由しない。毛布でも借りれば何とかなりそうなので、そのまま登山を続けることになる。
 この小屋を後にして、暫く林の中を歩いて行くと、突然、目の前が開けてきたと思うと、大小の岩が積み重なったガラ場に出る。この歩き難いガラ場を10分ばかり、岩伝いに歩いて行くと仙水峠(標高2264m)に到着する。このとき、9時30分であった。
 この峠で、ひと息、入れてから、次の目標の駒津峯に向かって再び歩き始める。
 ここからは尾根を直登していくのだが、これがなかなかどうして急な道である。周りは背丈の低い樹木が生えているだけなので見通しは利く。このとき、天気は薄曇り。遠くは雲がかかったり、取れたりの繰り返しで、それほど条件はいいとはいえないが、それでも上を見上げると雲の切れ間から甲斐駒ヶ岳が顔を覗かせるようになってくる。また、背後を振り返れば、明日、登る予定の仙丈ヶ岳、ここへ至る登山道の一部が垣間見られる。とはいえ、これを楽しむ体力的余裕はなく、呼吸を整えるのに精一杯だった。
 また、この頃になると、登山道脇の灌木の間にシャクナゲとか、名前は分からないが赤、白、黄色などの色とりどりの花々が至る所で目に付くようになる。花には興味のない私でも、確実にこれらに心も身体も癒されていた。
 この急登中、シカちゃんが遅れ始める。彼にはヒロシちゃんが付き添ったので、姫君と私が先行する形になる。『駒津峰で落ち合えばよい』と思い、とにかく、歩みを進めることにする。ちなみに、体力も技術もない私は、自分のペースで歩かないことには潰れてしまう。だが、私より1日の長があるヒロシちゃんは、早い人にも遅い人にも器用に合わせることができるのが、私にとっては不思議で仕方がない。

駒津峰頂上 後方は甲斐駒ヶ岳

 11時10分、駒津峰(標高2740m)に到着する。例によって、儀式を執り行いながら……。こんなとき、「名古屋の……」という声が耳に入ってくる。儀式を中断して声の主を確かめるが、咄嗟には誰だか分からない。「五竜で……」の声でハタと思い当たり、辺りに休んでいた人たちを改めて眺めると、懐かしい顔を見付ける。5月に五竜岳で出会った東京の登山学校の一行であった。「校長先生は……?」と問うと、「今日はきていない。代わりに副校長先生が……」などという会話がしばらく続いた後、彼らは頂上へ向かう。
 こんなことで時間を費やしたが、ヒロシちゃんもシカちゃんも、まだ着かない。「だいぶ、離れたようね」、「頂上で待とうか?」、「そうね」という会話を交わし、私たちだけで先行することにする。
 駒津峰が森林限界のようで、これから先は樹木のないというか、ハイマツとかシャクナゲという低木だけの岩場の道に変わってきた。
 こんな岩場の道をアップダウンを繰り返しながら登り上っていくと、直登コースと巻道コースの分岐にやってきた。「どちらからいこうか?」、「直登する人、いないんじゃぁない?」、「うん、そんなら巻道でいこう」ということになる。
 この辺りから道は風化した花崗岩地帯になってきて、滑り易いこと、この上ない。鈴鹿でいえば、三池岳の山頂、宮指路岳から仙ヶ岳への稜線にあるような道である。足を取られ、また取られで文句をブツブツといいながらジグザグに登り上がっていく。こんなとき、「あっ、ヒロシちゃんだ」と下から登ってくる隊長の姿を姫君が捉えた。「シカちゃんは?」と尋ねると、「見えないわ」との答え。そのうちにヒロシちゃんの姿も見えなくなってしまう。心配はない。地形が変わっただけなので、そのまま頂上へ向かう。
 頂上への最後の登りは相当にキツかった。それでも、12時40分、標高2966mの南アルプスを代表する名山、甲斐駒ヶ岳の頂上にようようの思いで辿り着くことができた。これと僅差でヒロシちゃんも到着した。ヒロシちゃんによると、シカちゃんは駒津峰で登頂を断念、ここで待っているとのことだった。

甲斐駒ヶ岳頂上

 甲斐駒ヶ岳の頂上は、多くの人たちで賑わっていた。会話した人たちは、大分、岡山、新潟、東京、千葉県からきたといい、全国各地から訪れていることが分かり、この山の人気の度合いが自然と知ることになった。
 シカちゃんが下で待っているので、そう、のんびりと構えているわけにはいかず、ビールを飲んで弁当を食べただけで早々に下山することになる。でも、これがいけなかった。いつもなら焼鳥パーティで時間を費やすので、アルコールを採り入れても醒めてしまうが、本日は酔っぱらったまま降りるので、とにかく眠くて仕方がない。これを見てか、姫君が悪口をいっているようだが、何せ、半分は寝ているので、その意味は理解できないので私としてはつごうがよかった。ただ、途中、水の流れ出ている所で、顔を洗うように姫君からいわれて従ったが、この場所が何処だか分からない。ただ、冷たい水で気持ちが良かったことだけが感覚に残っている。
 駒津峰でシカちゃんと合流、計画では双児山経由で降りることになっていたが、どういうわけだか、隊長のヒロシちゃんの命令で往路と同じ、仙水峠経由で降りることになった。
 そして、17時近くにテント場に帰り着いたが、正確な時間は記録がなく不詳である。

帰路 駒津峰での全員記念写真


日本百名山を全山踏破 - 2012.10.23 Tue

最後に残った平ヶ岳
 10月21日の午前7時19分、私たちは新潟県と群馬県の県境に位置する標高2139mの平ヶ岳の頂上に立った。
 これをもって私たちの日本百名山(深田久弥選定)の旅は完結したことになる。要するに、北は北海道の離島にある利尻山、南は鹿児島県のこれまた離島の宮ノ浦岳など100の山々の総てに足跡を残したことになる。
 この瞬間は、大きな感動に包まれることだろうと思っていたが、そんな感慨に襲われることはなかった。むしろ、『やっと終わった』という安堵の思いの方が強かった。
 思い起こせば、百名山の旅は1996年(平成7年)の富士山に始まる。
 これから数えれば、100座を登り終えるまでに17年の長きを費やしたことになる。やはり百名山に足跡を残すには、それなりの歳月が必要ということだった。
 だが、最初のうちは百名山を意識することはなく、というより百名山の存在自体を知らなかったのだ。それから間もなく、この存在を知るには知ったが、それに挑戦しようという気はまるで起こらなかった。対象の山が、北海道から九州までの日本全土に広がることもあり、これらへ出かけるには費用の面でも時間の面でも私たちにはとても実行に移せないという事情があって、百名山は遠いとおい夢の世界の話であった。
 それが挑戦してみようということになったのは、こんな経緯があった。
 2009年(平成21年)5月をもって姫君が33年にわたって経営していた商売(スナック)を廃業することになった。これを手伝っていた私も自動的に失業を余儀なくされ、2人ともに毎日が日曜日という憐れな状態に追い込まれた。
 これによって時間の制約からは解放されたが、解決されないで残ったのは費用の面である。今までも赤貧を洗うがごとき生活であったのが、2人ともに失業の身になり下がっては月々に僅かではあるが得ていた収入すらも失ってしまった。
 でも、『窮すれば通じる』の例えどおり、必死で考えた末、野宿を重ねて山旅を続けることを考え付いた。
 そこで、ワンボックスカー(ハイエース)を寝泊まりならびに食事もできるように内部を改造して目的を叶えることにした。
 手始めに、09年11月に九州在の4座を登る。これを終えて数えてみると、アルプス各山に加えて名古屋近在の山など、これまでに39座を登っていた。
 翌10年には北海道の9座を皮切りに四国ならびに関東の山、計30座を消化する。
 11年に残ったのは東北ならびに関東甲信越の山々が31座。前年ペースで登れば、この年で100座を登了となるはずで、現実にも順調に消化ができたが、この年の7月に起きた新潟・福島集中豪雨禍により、この県境にある平ヶ岳は登れなくなってしまう。原因は、道路の崩壊であった。
 この道路が復旧するのは12年10月からの予定だったので、ジッと耐えることになった。
 10月になって登山が可能となったが、どうせ登るなら紅葉が盛りを迎える中旬まで待って登ることにした。
 そして10月も18日になり、『いよいよだ』と腰を上げて、登山口に近い銀山平温泉の宿泊兼送迎バスを運行する民宿に予約を入れるために架電する。すると、「今年の登山口への送迎バスの運行は10月21日までだが、何れも満員である」と、まったく予想だにしない返事であった。
 仕方がないので、私たちにとっては荷が重いが、鷹ノ巣ルートで登るという思わぬ展開となってしまう。
 私たちでは、日帰りは無理があるため、テントを担いで1泊で登ることにした。だが、このコースはタフだった。ようようの思いで登頂が果たせてめでたい結果となったものの、百名山の中でも最もてこずった山だった。

日本百名山、100番目に登頂した平ヶ岳

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