topimage

2017-04

藤原岳 - 2017.04.16 Sun

 一昨日、4月14日の朝、「天気もよさそうだから、山へ行ってみる?」と、姫君に水を向けてみる。多分、断られるだろうと思っていたが、案に相違して、「何処へ?」と乗ってきた。シメシメと思いつつも、これを顔には出さずに、「孫太尾根か、藤原岳。どちらがいい?」と彼女の意黄を尋ねる。
 どちらでも良いという返事だったので、あれこれ思案して、花の種類が多いことが期待できる藤原岳に決めた。
 私にとって今年の山行きは、3月9日の丸山(孫太尾根)、3月12日の藤原岳、3月16日の入道ヶ岳である。これに対して姫君は、この内3月12日の藤原岳以来の1ヶ月ぶりということになる。なお、このときの藤原岳は、7合目からの登山道には踏み固められた雪に覆われていたので、ここから引き返している。
 ちなみに、これまでの花の収穫について述べておく。
 丸山では、途中のセリバオウレン、頂上のセツブンソウとフクジュソウだったが、これらはまだ咲き始めたばかりで、目を凝らして探さなければならないという状態であった。
 藤原岳の7合目までは、花は何も見付け出すことはできなかった。
 入道ヶ岳は、目的のフクジュソウには出合うことができたが、その他については何もなかった。
 このような状態で、鈴鹿の花は例年よりも遅い感じである。4月半ばといえど、今年は3月に何度も雪が降ったようでもあり、思ったように花が咲いているかは何とも言えないが、これまでのようなことはなかろうと考えて、9時前に自宅を出発した。
 この日は金曜日。平日の朝方ということもあって道は混んでいたが、渋滞箇所はなく、概ね順調に走ることができ、10時過ぎには大貝戸登山口の駐車場に到着する。
 平日とはいえ、この時間帯では駐車場が空いているか、否かが心配であった。到着してみると、やはりこの不安は的中。空きスペースはまったく残っていなかった。
 ここが満車の場合は、ここから歩いて7、8分の所にある観光駐車場を使用するのが常であるが、このときはここまで行くことはなく、登山口近くの墓地入口付近に駐車スペースが残っていたので、ここに路上駐車する。
藤原岳a
 10時35分、身支度を整え終えて、登山口を歩き始める。
 本日は黄砂がきているのか、モヤがかかっているのか判然としない。このため、一応、晴れてはいるようだが、カラッとした晴れではなく、薄日が差し込んでいるような柔らかな日差しである。
 でも、結構、気温は高いようで、半袖のTシャツの上に薄手のスポーツシャツという姿でも寒くはない。
 現在の登山口は神武神社の鳥居下で、ここから神社の境内を縦断する形で進んで行くと、大きな川の左岸に行き当たる。
 ここから右手に採ると、ここから先は昔からの登山道で、迷おうにも迷いようのない立派な道が続いている。藤原岳へ通じる登山道は幾つもあるが、この大貝戸道というのが、その中にあって最もポピュラーな登山道であり、登山者の8割がたが使用しているといっても過言でない。
 この登山道を簡単に説明する。
 まずは標高であるが、登山口が160m、8合目が850m、10合目の避難小屋が1070mである。なお、藤原岳は幾つもの頂を持つ山で、登山者が頂上と呼んでいるのが『展望の丘』で、ここの標高は1140余mである。ちなみに、頂上の標高が判然としないのは、ここは国土地理院の測量が行われていないため、標高線から推定した数字に過ぎないので、余mという表示を余儀なくされるのだ。
 また、この間の距離を地形図から計ってみると、登山口から8合目が2270m、8合目から避難小屋までが760mで、登山口が避難小屋までを通しでは3030mということになる。
 なお、昭文社の『山と高原地図』におけるコースタイムは、登山口から避難小屋までの往路が120分、復路が75分となっている。
 本日の狙いの花は、キクザキイチゲである。これにどれくらいの花が加わるかというところだ。狙いの花は8合目以遠に咲くので、何とか、ここまでは辿り着きたいが、ここまでは標高も距離も現在の私の体力では、限界ぎりぎりのところで、果たして辿り着けるか否か、微妙である。
 また、姫君もリハビリ中の身では、私と似たりよったりというところなので、とにかく行ける所まで行ってみようと思っての出発であった。
 ここの登山道は、ポピュラーなものだけに、誰にでも手軽に登ることができるようにキツイ勾配の所はジグザグに切ることによって同じような勾配を保っているので、比較的に楽に登ることができる。このため、体力に自信のあった頃は、この道は不遜にも馬鹿にしていたところがあって、縦走の帰りに使う程度で利用度は低かった。
 だが、最近ではこの道でさえも、もてあまし気味である。こうなると、以前は何でもなかった道でも、結構、急な勾配で、それがずっと継続していることを気付く次第であった。
 こんなことを考えながら歩みを進めていると、道の左手にミヤマカタバミが咲いているのに出合う。
 この花の葉っぱが、わが三太夫家の家紋に使われていることから、馴染みの深い花である。とはいえ、これは気温とか日差しとか、気象条件に左右される確率が高く、なかなか綺麗な状態でお目にかかることは少ない花である。ここは樹林の中で、日差しという意味では充分でないのにかかわらず、綺麗に花びらを開いているものが多く、稀に見る良い状態であった。
 以前なら、これを見れば大喜びしてザックからカメラを取り出すところだが、今は歩き始めて間もない頃に道草を食っていては上まで辿り着けないと危惧するのだろう。7合目辺りで撮ればいいと思い、これは横目に見るだけで、歩みを停めることはなかった。
 間もなく、2合目の標識が見えてきた。ここに、以前、ミノコバイモが咲いていたことがある。だが、これは1年限りに終わって、以後、ここに咲いているのを見たことがない。それでも万が一ということを考える助平心が働くので、以前、咲いていた場所に立ち寄って探してみるが、そんなに都合よくはことは運ばなかった。
 先ほどのミヤマカタバミは形の良い花があっても立ち止まらなかったのが、ミノコバイモとなると咲いていないことは分かっていても探すという違いは不思議に思う向きもあろうから説明すると、前者は珍しい花ではなく、ある場所にはいっぱい咲くが、後者は見られたとしても年間で10個もあれば良い方という希少価値があるためのことである。
 4合目にやってきた。
 ここには倒木のベンチがあり、一服するのに適している。ここで一休みしたついでに、スポーツシャツを脱ぎ、半袖のTシャツ1枚の姿になる。素肌をさらした腕にあたる風はやや冷たさを感じるが、寒さよりも気持ち良さを感じる。
 ここを過ぎると、いよいよ花が顔を覗かせるのが、何時ものことだ。
 スミレとか、ニシキゴロモを思い描いていたが、最初に登場したのがカンアオイであった。それも少し変わったカンアオイであった。見付けたのは姫君で、その第一声が、「変わった形のカンアオイよ」であった。近寄って見てみると、なるほど、今まで見てきたみものとは色が少し異なっていた。『スズカカンアオイというものがある。それではないか』と思い、後に調べてみると、やはりスズカカンアオイだった。
 ここから少し離れた所に、予定どおりにタチツボスミレがあったが、数は思っていたより少なく、咲き始めて間もない頃だと推定される。
 続いて5合目を過ぎた辺りでニシキゴロモも現れたが、これもまだ花付きの少ない、小さな株であった。
 4合目から5合目過ぎまでは、この山に多い杉の植林ではなく、雑木林であったが、再び、植林の中へ入っていく。すると、姫君が立ち止まり、「近道を行く?」と尋ねるので、「いや、真っ直ぐ、楽なほうから」と私が答えた。この頃になると、私の足は軋み始め、ギシギシという音が耳からも聞こえるような錯覚に陥っていた。
 ここで下山者に出会い、言葉を交わす。それによると、避難小屋の裏手の広場で1輪だけだが青色のキクザキイチゲを見付けたこと、また、これまた1輪だけだったが小屋前でミノコバイモが咲いていたとのことだった。
 キクザキイチゲは、咲いているとしたら咲く場所は分かっているので、それほどの朗報ではなかったが、ミノコバイモは年によって咲く場所が異なるので、お目にかかるのは運が左右する。このため、このニュースは私の萎える登高意欲を奮い立たせる役目を果たしてくれたようで、それまで8合目で引き返そうかと逡巡していたのが、この瞬間、何処かへ飛んで行ってしまった。
 13時07分、8合目にやってきた。出発が10時35分だったので、ここまで2時間30分もかかったことになる。
 ここにザックを降ろして、花を探しに出かけてみる。ここでも過去にミノコバイモ、カタクリなどに対面しているので、2匹目のドジョウを狙ったのだが、諺どおりに空振りに終わる。でも、ヒロハアマナだけはミニ群生を見せてくれていて、空振り三振ではなく、言うならば振り逃げ成功とでもいうのだろうか。
 先ほどの耳寄りな話を聞いてから、私はここから帰るという思いはなくなっていたが、姫君の体調もあるので、私の思いだけで行動はできない。このため、彼女の意向を尋ねると、「これが最後になるかも知れないから行く」というものだった。
 ここ8合目にはセリバオウレンが群生するが、この場所にはロープを張って立ち入れないようにしてある。最近、誰が決めるのか、こんな無粋なことをするところが多いが、ここでは立ち入ることなく、登山道脇で見付かった。
 次はトウゴクサバノオだが、これは時期が早かったか、見付けるには至らなかった。でも、この代わりといっては変だが、ミスミソウが見付かった。
 また、ここからは、この山を全国的に有名にしたフクジュソウが点々と咲いていた。入道ヶ岳では1ヶ月も前に見ており、ここも終わりに近いか、既に終わったと思っていたが、まだ、蕾状のものもあり、この先も楽しめそうな雰囲気であり、明らかに入道ヶ岳に比べると遅れている。とはいうものの、ここでも花びらを散らすものもあるので、一概に断定することはできないが……。
 とある場所で白い花、ミスミソウを見付けたが、花びらが閉じ加減で形も悪いので、そのまま通り過ぎた。
 この直後、「この先にキクザキイチゲが咲いていた」という下山者のが聞こえた。それなら見にいこうと、踵を変えて降ることにする。すると、案内された先には、先ほど、ミスミソウだと思ってやり過ごした花がそうだと分かる。だが、開いていないのでは仕方がないので、また、登り返すことになった。
 9合目を過ぎて、いよいよフクジュソウも花盛りになってくる。しかし、私の足のほうは思うように動かなくなり、花などどうでもよくなり、必死に動かぬ足に鞭打っていた。
 この急斜面は、いわば胸突き八丁という所で、このルートの最難関区間である。でも、ここの複数個所で過去にミノコバイモが咲いていたことがあり、本日も可能性はあるので、細心の注意を払って進んで行くが、そんなに上手いこと見付かるものでもなく、疲労だけが溜まっていった。
 それでも何とか、この難関を踏破、頂上台地に登り上がる。何と、そこには雪が多く残っていたのには驚きであった。そういえば、今年は3月に入ってから、この鈴鹿では何回も雪が降ったので、雪解けが遅れたようだ。
 ここから10合目避難小屋までは指呼の間である。14時33分、ここに到着する。この時間である。小屋前広場にも、小屋の中にも登山者は見当たらなかった。
 8合目から約1時間26分、登山口から約4時間もかかって、やっとのことで辿り着いた。
 でも、最後の大仕事が待っているので、ノンビリとはしておりない。
 早速、ミノコバイモとキクザキイチゲの探索を始めた。
 ミノコバイモは、こやからそれほど離れていない場所だということだったので、思い付くままに丁寧に探すが、この広い原っぱ状の所で10㎝にも満たない草花を探そうとするのが、そもそも無理な相談である。結局、何も得られないままに終わる。
 これがダメでもキクザキイチゲがある。この花は、以前、何回も見ており、今年もそこへ行けば簡単に見付かるだろうと安易に考えていた。しかし、いつもならそれほど労せずに見付かるはずの花は、今年に限って咲いてはいなかった。
 それなら、先ほどであった登山者の見たという青色のキクザキイチゲを探すしか他に有効な手立ては持ち合わせていない。彼の言う、小屋の裏手の草原に立ってはみたが、そこはあまりにも広過ぎた。それでも探すだけである。あちらこちら歩き回ってみるが、やみ雲では徒労感を味わうだけに終わった。
 もう、そろそろ諦めようかと思った矢先、目の中へ白い花が飛び込んできた。「おっ、あれだ」と思って近付いてみると、はやり、求めていた花であった。
 早速、カメラのファインダーを覗き込んだのは言うまでもない。こうして姿勢を低くして視線を脇にやると、何と、そこにもあるではないか。こうして1つを見付けると、次々と見付かるのは何時ものことである。こうして、都合、7、8個は見付けてカメラに収め、上機嫌で小屋に戻る。
 そして、15時12分、充分な収穫に機嫌を良くして下山に取り掛かる。
 こうしてツイてくると、また、それがツキを呼ぶようである。
 下山時に出会った人からも耳寄りな話がもたらされる。それは、ミノコバイモの咲いていたという話である。これは場所も具体的で、帰り道でゲットすることができた。
 こうして気分は上々であったが、身体は正直であった。気持ちとは裏腹に足はガクガクで踏ん張りは利かず、転びそうになりながらも何とか持ち堪え、15時10分、転び込むように登山口に帰り着いた。
 こうして、登り4時間、降り2時間の往復6時間を要した藤原岳登山を終えた。
2017_04_14 キクザキイチゲ

自費出版本第3弾完成 - 2017.03.30 Thu

 昨29日、このところ掛かりきりになっていた本の印刷と帳合が完了した。
 この本は、『2012年 北海道の花旅』という題名で、先に出版した『車旅日記』に次ぐ北海道シリーズの第2弾である。
 内容は、2012年に敢行した6月5日から8月3日間、60日間におよぶ花を求めて北海道内の花の名所を放浪して回った結果をまとめたものである。
 これは、ブログで発表したものを本にしただけで、目新しいものではない。
 これまでに制作した『私たちの山の履歴書』、『車旅日記』は、本の形式にした見本1部を刷り上げ、これをPDF形式に保存したUSBメモリーを印刷業者に渡せば、私の仕事は終わりであった。
 しかし、今回は花が主役であるため、本の中に挿入した写真は白黒ではなく、カラーにしたいという意向がある。
 これで見積もりを取り寄せると、印刷に要する費用が黒白に比して何倍もかかることが分かって、この計画は暗礁に乗り上げ、頓挫してしまった。
 一時は中止することも考えたが、折角、進めた計画である。何とか、実現したいとの思いが強く、種々、考えた結果、印刷は自分で行うことにする。
 自家印刷は『車旅日記』の際にも試みようとして、使い捨てをしても惜しくはない安価プリンターを手当てしてあった。このため、このプリンターを役立てる場面が出てきたことになり、ある意味では願ったり、叶ったりであった。
 でも、印刷に取り掛かるが、これがなかなかの難題であることが身をもって知らされることになる。
 本の体裁は、A5判、2段組で280ページである。
 1ページをジーコ、ジーコと印刷するだけでも数十秒を要する。これを280ページである。1冊分を刷り上げるだけでも、多くの時間を必要とする。時間をかければ何時かは終わるだろうと考えて、当初、これを100冊、印刷する計画で作業を始めた。
 後々のことを考えると、帳合をとる手間が省けるので1冊づつを刷り上げることがベストである。このように刷るとなると、奇数ページ(表面)を刷り上げてから、今度は偶数ページ(裏面)を刷らなければならない。
 これがうまくいけば問題はないが、何かの拍子に2枚の紙が重なった状態で送られてしまうと悲劇である。以後のページ全部が失敗になってしまう。既に表面は刷ってあるので、裏表面共に失敗になってしまい、損失は2倍になる。
 この愚を避けようとすると、1ページづつを愚直に刷っていかなければならなかった。
 これがなかなか大変な作業であることが分かり、100冊は無理だと早々に諦めることになり、80冊に計画補縮小する。その後、更に20冊を削り、最終的には60冊に落ち着くことになった。これにより、既に刷り上げたページの1部が不要となり、廃棄処分をせざるを得なかったが、これは潔く諦めることにした。
 こうして作業を進めていくが、インクの消費が思っていた以上であることが分かってくる。特に、カラーインクの消耗が激しい。
 『北海道の花旅』という本の性格上、写真の主役は花である。
 花の色は色々であるが、この周囲は葉っぱなどで緑色のことが多い。ということは、黄色と青色が先行して消費され、赤が残ることになる。
 使用するHP(ヒューレット・パッカード)社製のプリンターのインクは、ブラックとカラーの2種類である。インクボックス内部のことは分からないが、赤、青、黄色の何れかが無くなると、他の色が残っていたとしても、交換、廃棄しなくてはならず、不経済であることが判明した。
 このため、カラーページだけは、これまで使用している6色のインクが各々独立するエプソンのプリンター使用に切り替える。
 このように紆余曲折を経ながら、長い時間をかけて280ページ分が刷り上がり、帳合に取り掛かることになった。
 帳合とは、1ページから280ページまでを、番号順に綺麗に並べる、積み上げる作業である。
 この作業にはある態度の広い場所を必要とするが、貧乏所帯のわが家には適当な場所がない。仕方がないので、座卓の上を作業台代わりに使うことにする。座卓の上には13枚を広げることが可能であり、1回に13冊が出来上がり、この作業を5回づつ繰り返すと60冊が完成する運びとなる。
 これで終わりではなかった。
 果たして、間違いなくページ順にそろっているかを確認する作業が待っていた。
 これが意外に大変な作業であった。
 裏白のページがあったり、ページがひっくり返って並べられていたりという具合に、結構、見直してよかったと思うほどの間違い箇所が見付かった。
 こうして、昨日、ようやく完成をみて、製本業者に持ち込むところまで漕ぎつけることができた。
 こうして苦労して完成させた本に目を通してみると、肝心の文章の校閲が満足に出来ていない所が多々あることに気付かされた。
 自分で書いたものを自分で校閲することは、なかなか上手くはいかないことは分かっているが、それにしても今回は酷すぎる感が強い。これら箇所を直すといっても、今さら、できるものではない。
 これが分かってみると、完成の喜びも束の間、今では自責の念に苛まれている。
000 DSC_0005a
    《印刷に先立ち、自分で製本してみた見本》

春の訪れが実感できた - 2017.03.01 Wed

 2月も残り少なくなった27日。
 この日は穏やかに晴れた暖かい1日であった。
 こんな陽気に誘われて、姫君の御供で藤原岳の麓にある集落に出向き、気になっていたセツブンソウの様子を見てきた。
 三岐鉄道の西藤原駅の駐車場に車を置いて、ここから歩いて現地に赴く。
 ここへの道を歩いていくと、屋敷畑の手入れをする主婦と出会う。挨拶に伴う会話によると、今年のセツブンソウは少ないとのことであった。
 でも、裏を返すと、今年もセツブンソウは咲いているということでもあり、多い少ないは別にして、ここまで出張ってきた甲斐があったことが分かって胸を撫で下ろす。
 現地に着くと、なるほど、これまでに比べるとセツブンソウの数は少ない。
 小さな水路と人家の離れの間の土手には、数えることができる程度の花がパラパラッと咲いているだけ。何時ものように離れた場所からでも分かるような密度ではなく、先ほどの主婦の話が本当であったことが証明された。
 もう1ヶ所、この土手と隣り合わせた人家の前庭のような場所には、もう少し固まって咲いてはいたが、こことて例年に比すと寂しいかぎりであった。
 これが今年に限ったことか、来年以降もこの傾向が続くかは不詳であるが、でき得るならば前者であって欲しいと願いつつ、撮影に取り掛かる。
 このあと、旧藤原自然科学館の近くにあるセリバオウレンの自生地にまわる。
 ここでも狙う花は1つを見付けるのがやっとに終わり、ここでも花が少なくなっていて、少し落胆することになった。
 それでも春の花2つをゲットすることができ、私たちの冬モードもこの日を境に春モードに切り替えができた。
 翌28日。
 今度は瀬戸市と尾張旭市に跨る愛知県森林公園にいってみる。
 いつものように南門の詰所で開花状況を尋ねると、「梅が5分咲き、ユキツバキが咲き始めたところです。草花は3月にならないと……」とのことだった。
ということで、ここは空振りの様相であったが、「折角、ここまで来たのだから園内を一回りしていこう」と相談がまとまり、歩き始める。
 なるほど、ここはまだ冬の延長上のような雰囲気であった。すなわち、木々は葉っぱを落とした裸の木が多いし、地面も緑は殆ど見当たらないという具合であった。
 園内の中央に位置する展示館前の花壇を覗いてみると、フクジュソウが1つだけ黄色の花を咲かせており、蕾も2、3個が散見することができた。ここは、まだ冬だとはいえ、春の訪れは直ぐ近くになっていることが分かって少し気分が明るくなってきた。
 これに気を良くして更に足を延ばすと、東門近くの噴水の傍でヒメオドリコソウとハコベが見付かった。この隣には極小の花が咲いていたが、何だかは分からなかった。オオイヌノフグリに似ているように感じたが、これより小さいし、接写レンズで見てみるとこれとは違うことが歴然であった。ちなみに、帰りに南門の詰所の職員に尋ねると、『フラサバソウ』ということが分かった。
 こうして初見の花といってもいい、フラサバソウに出合えたことを収穫に、心も軽く家路に就いた。
 3月1日の本日。
 恒例の朝の散歩の折、姫君が「寄って行こうか」と言い、名城公園内に立ち寄ることを誘う。狙いは直ぐに理解できた。
 2週間くらい前、ここでフクジュソウを見てみたが、このときには影も形も認めることができなかった。とはいえ、昨日、森林公園でフクジュソウが咲いていたので、ここのそれも咲いているかもしれないので見ておこうという意味合いだ。
 ここには2ヶ所でフクジュソウが植えられている。
 散策路からも見える場所に1ヶ所がある。ここに近付くと、黄色がチラチラと目に飛び込んでくる。咲いていた。近付いてみると、花びらは開いているにはいたが、まだ小さく、もう2、3日くらい後が見ごろになりそうだろう。
 もう1ヶ所、といっても最初の場所から10メートルくらいしか離れていないが……。ここにも行ってはみたが、ここの花は最初のものよりも、もっと小さく、盛りになるにはもう少し時間を必要としそうであった。
 本日から3月。暦では春になったとはいえ、まだ寒く、冬の延長上ある感じで、コタツの中で縮こまっていたい気分である。
 でも、この3日間に訪れた藤原岳山麓、森林公園、名城公園の何れでも春の山野草に出合うことができ、春の訪れが実感できた。
 こうなればショボくれた末期高齢者を卒業して、外に出てみようかという気がしてきた。これが春というものだろうか。
2017_03_01 セツブンソウ

ヨレヨレ新聞の思い出 - 2017.02.10 Fri

 昨日、かつて私たちが発行していたヨレヨレ新聞の56号分の綴り、4冊の製本ができあがった。私の手作りであるが、思いの他、上手く仕上がった。製本も数をこなせば、不器用者にでも可能であることが証明されたようで、気分が良い。
 このブログを始める以前、私たちの山行きの報告を兼ねて毎月1回の頻度で新聞を発行していた。この新聞の名称が『ヨレヨレ新聞』であった。
 この新聞の第1号は、1998年2月1日に発行された。
 私たちが初めて富士山に登ったのが、1994年のお盆。私たちがヨレヨレ山歩会・名古屋を結成するきっかけになった10名での大台ヶ原登山が1996年ということからみると、初登山から僅か4年ということになる。
 初登山から4年、会結成から2年で新聞発行ということは、如何に急速に山にのめり込んでいったかが分かろうというものだ。
 しかし、如何にのめり込もうが、何分にも経験不足で、山に関しても何も分かってはおらず、今、読み返してみると赤面のかぎりである。
 第1号は、当時、仕事で使用していたワードプロセッサー(ワープロ)で、A3版4枚に仕上げ、これを2枚づつ並べてB4版1枚に裏表の縮小コピーしたもの、すなわちB5版裏表4ページという貧弱なものであったが、できあがったときは嬉しさで飛び上らんばかりであったことは、20年近くも経過した現在でもハッキリと覚えている。
 当初、偶数月に隔月発行と決めての発足であったが、翌年からは毎月発行に増える。
 当初、何をどのように書いてよいやら手探りで、恐るおそるやっていたのが、慣れてくるにしたがい、次第に書く要領も自己流だが会得できるようになるので不思議なものである。
 初めのうちは、偶数ページにまとめ上げるのは至難の技で、終わり近くなると戦々恐々としたものだったが、これも号数が重なるとともにそれほど苦労することもなくなる。
 すると、今度は文末の余白をでき得る限り少なくするように心がけることに腐心するようになる。
 当時の一般新聞は、1段17文字くらいであったと記憶している。ということは、1行1文字だけで終わったとしても、文末の句点(丸)が入るので、残る余白は15文字分である。
 一方、私の使用するワープロは、1行が40文字で、1ページで36行という初期設定であった。これを変えるという知識の持ち合わせは私にはなく、初期設定のままで使用していた。
 ということは1行が最初の1文字で終われば、文末の句点を入れても38文字分の空白が生じ、新聞と比べ物にならないくらいに空白部分を生じさせることになる。
 これを避けたいがために、色いろと工夫することになる。
 下手な文章は縮めることにはさほど困ることはないが、ボリュームを増やすとなるとなかなか大変である。そもそも、読んで意味が分かってもらうために説明にはでき得る限り注力して書いてあるのだから、それ以上に文字数を増やせと言われても良い知恵が浮かばないという事情があるからだ。
 こんなとき、一番、スペースを潰すことができる方法は写真である。
 このヨレヨレ新聞を作成するワープロは、東芝社製の『ルポ』という機種である。
 なお、この機種を使うようになるには、次のような経緯からである。
 新聞を発行した前の年、1997年の暮も押し迫り、年賀状を作成していると、当時、使用していたワープロ、日立製作所社製の『ワード・パル』であったが、これが壊れてしまった。
 このとき、年末に関わらず営業していた家電量販店の栄電社(現・EDION)に行くと、写真も印刷できるといって薦められた機種が『ルポ』であった。
 当時、新聞を作るという漠たる構想はあったので、これは朗報と飛び付いたという次第である。
 新聞作りには、この写真機能が大いに役立った。
 使い慣れると、写真2枚、3枚を使用してパノラマ写真に合成することも可能であった。このように優れモノではあったが、この手のものとしてはごく初期のものであり、印刷するとインクリボンの重なる個所が横の筋となるなど、今からみると玩具のような代物であったが……。
 この写真の助けもあって、新聞も次第に量を増していった。
 こうなると、不便なことも起きてくる。
 20ページくらいなら普通のホチキスで留めることは可能だが、これを越えると上手くいかなくなる。文房具店で相談すると、同じような構造ながら多くの枚数を留めることが可能な機種のあることが分かり、以後はこれで留めることになる。ちなみに、最高ページは40ページというときがあったが、何とか、これで間に合った。
 この新聞も5年目、2002年の暮れ、第56号(臨時増刊を含む)をもって、廃刊を余儀なくされた。
 でも、この5年間というもの、山行きは言うに及ばず、新聞作りでも非常に充実した期間で、今から振り返ってみても懐かしく、色々の出来事が昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。
 しかし、このように過去ばかりに目を向けた、後向きの生活で果たして良いものだろうかという忸怩たる思いがないわけではない。だが、気持ちは前向きに生きていかなければならないとの思うものの、身体も、頭も思いのようには働いてはくれず、結果、できることは後ろ向きのことだけという悲しい現実がある。
0 DSC_6638C
   《表紙の年号を1年づつ間違えたのが悔やまれる》

本およびアルバムの製作に奮闘 - 2017.02.01 Wed

 つい、この前、新年の御挨拶をしたばかりだと思っていたら、いつの間にやら、1月は終わっていた。
 この間、私自身は忙しく、1日、1日を過ごしていたため、余計にこのように感じるのかもしれない。
 昨年の12月の初めに脳のMRI診断を行った。
 その結果、前回(4年前)と比し、格別に大きな変化はなく、ひと安心という結果だった。とはいえ、私が画像を確認したところ、前回も気になっていたことだが、頭蓋骨と脳みその隙間が、そのときに比べると大きくなっていた。
 これ以後、このことが心配の種になっている。
 この症状は、大人の頭蓋骨は成長しないから脳みそが小さくなって起こる、すなわち脳の委縮する現象と考えられる。
 人間として生活するのに、どれくらいの脳みそがあればよいかなど、専門的なことは分からないが、小さくなればなるほど働きは低下すると考えると、ある程度の段階で人間以下になることも充分にあり得る。
 要するに、脳の委縮の進行は、換言すると人間から遠ざかっているということになる。私も、これがもう少し進めば、身内の者に対しても「あなた、どちら様?」と言い出すかもしれない。
 医者は、脳卒中を危惧してMRI診断を薦めたが、私自身はこれらを患ったとしても、それはそれで仕方がないことだと諦めも付く。しかし、脳の委縮が進行して人間から離れていくことを想像すると、これは何としても避けたい、恐ろしいことように思える。
 このように考えると、人間として物事を考えられる期間が縮まっていることは確かであり、頭が何とか働いているうちにやっておくことは済ませておこうと考えるようになる。
 身辺整理といっても、たいしたものは残していないので、姫君に口頭で伝えればそれで終わり、いとも簡単である。
 これ以外で何をやろうかと考えると、私の後半生に注力した山に関したものを少しでも整理しておきたいと思う。
 2012年に2ヶ月をかけて北海道内を回って、花の写真に特化した旅の記録をまとめてみようと思い、『北海道の花旅』という題名で、3冊目の本を制作することにし、準備に取り掛かる。
 これと並行して写真の整理も行うことにする。時間があまり多くはないと考えられるだけに、何もかも急ぐ必要があるので大変である。
 写真は、近年では殆どの人がそうだろうと思うが、パソコンの中のフォルダに入ったままになっている。私自身は、これでも何とかなるが、残されるであろう姫君は、この箱の中を覗くことができないので、アルバムにでもしておく必要がある。
 話は変わるが、先年、本を印刷したいと思い、ヒューレット・パッカ―ド社製のプリンタを購入した折、同梱のソフトウェアをインスツールしたら、アルバム印刷用のものが入っていた。
 このソフトウェアを使用するとアルバム帳のページはできるが、これを一冊の写真帳にまとめる方策が思い浮かばず、これを使うことなく放置してあった。
 でも、時間がないと思うと知恵も湧いてくるもので、セロテープでページを連結、1枚の表紙でグルッと巻くと何処へ出しても恥ずかしくないアルバムができることが分かる。
 この方法が見付かれば、アルバム作りも弾みが付く。
 昨年の『北海道車旅』(上下、2冊)、2012年の『礼文島花図鑑』などを作成する。
 また、年が明けてからは、殆ど、『北海道の花旅』の校閲にかかりきりの状態である。
 この本は、前著の『北海道車旅』と同形式ながら、差し込みの写真は花のみと限定した。この性格上、印刷はカラーで行いたい。
 この印刷代の見積もりを依頼してみると、黒単色に比して数倍の印刷代を要することが分かって、一時、計画は頓挫した。しかし、これを自分で印刷することで、何とか打開する。
 しかし、これも大変な作業となっている。何しろ、1日中、印刷してもジーコ、ジーコと1枚づつを刷るので時間がかかって往生する。しかし、根気強くやるより仕方がないので、腹をくくってボツボツとやっている。
 これらは、私が人間であるうちにできるかぎり済ませておきたいが、期限が分からないので、もどかしく思う、今日、この頃である。
アルバムほか 0

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

アクセス数

検索フォーム

最新記事

最新コメント

カテゴリ

登山 (147)
山野草 (415)
雑文 (139)
未分類 (14)
お知らせ (6)
案内 (2)
百名山 (22)
花旅 (75)
旅行 (29)
2014 北の大地花旅 (86)
2016・北海道 (83)

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する